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芹沢さま
お手紙ありがとうございます。
回を重ねるたびに新たに学ぶことがあり、こちらこそ嬉しい限りです。
2000年当時、まだPCを持ったばかりだったので、SETI@homeに続きFolding@homeなどが始まった時、こんなことができるのか!と、しばらく誰かと会うたびにその話題になっていたのをよく覚えています。結びついていませんでしたが、大きく影響を受けたプロジェクトの一つなので、その時の興奮が構想の根っこにあるんだと思います。分散型や市民科学、DIYバイオや発酵などの系譜に強く興味を持って、YCAMにも足繁く通い、ずいぶん影響を受けました。今でも一番好きなアートセンターです。
牧野富太郎が市民の植物図を集めた姿勢、南方熊楠の在野の探究や書簡ネットワークにも、同じ様相が感じられますよね。専門家でない人々が局所的な関与を積み重ねることで、全体として何かが立ち上がっていく構造。熊楠が研究した粘菌は中心も脳もないのに、最短経路でネットワークを形成します。合理化され尽くした鉄道網と同じ構造を粘菌が独力で作り出したという実験は有名ですが、誰も設計していないのに最適解が生まれる。粘菌に設計図はなく、司令塔もない。あるのは局所的な応答の連鎖だけで、それはやがて都市のような合理的構造を紡ぎ出します。
菌根菌によるWood Wide Webも似ていますよね。森の樹木は地下の菌糸でつながり、栄養や情報を交換している。管理者はいません。しかし森全体として、ひとつの判断をするかのような動きがあります。
そういった菌の特性や、菌の変成作用である「発酵」というプロセスに、クリエイティブコーディングを行うメディアアーティストたちが類似性を感じ、バイオアートなどに昇華しているというのも興味深いです。
Fermentationという言葉には「騒ぎ」「蜂起」「混乱」という意味もあるように、材料の足し算とはまた違った変容がそこには生まれる。発酵文化の旗手であるサンダー・キャッツは、発酵食品を「スーパーマーケットの棚に並んだ生命力のない工業製品とは正反対の存在」と表現しています。陳列されているものの対極。変容することを極力避け、個体差をなくすことの真逆。コミューンで発酵実験を繰り返し、Zineで発信する。そんなDo It Yourselfな発酵活動を続けてきた彼が、nomaをはじめとするガストロノミー最前線の料理人たちに多大な影響を与え、「料理界のアカデミー賞」と称されるジェームズ・ビアード賞の受賞者にまでなったこと。
前回の芹沢さんの手紙を見てふと思い出しました。
近代建築の中心にいたワルター・グロピウスたちが『建築家なしの建築』を強烈に推薦したというエピソード、当時の人たちが受けた衝撃は凄まじかっただろうなと想像しながら読んでいました。ある意味、自分たちの存在意義を覆してしまうものを評価する視点に、すごく潔さを感じます。
vernacular, anonymous, spontaneous, indigenous, rural
風土的、無名の、自然発生的、土着的、田園的
バーナード・ルドフスキーの『建築家なき建築』のコンセプトとなったこの五つの言葉を読み、強く共感しました。民謡や民話も、よみ人しらずの文化の中にあり、商業のために存在したものではありません。イヴァン・イリイチはヴァナキュラーを「一般の市場で売買されないもの」と拡張定義しました。近代社会の基本原理である交換によって手に入れられるものではなく、まだ見ぬ他者のためでもなく、自分たちのために作り使うものだと。
ヴァナキュラー建築は、最初から美しくあろうとして設計されたものではなく、人から人へと受け継がれ、多くの人が携わることで、気づけば美しく合理的な形に辿り着いている。粘菌は、脳も地図も持たないまま最適解の構造を導き出す。DAOもまた、意思決定は分散され、全体としての方向性がゆっくりと収束していきます。設計なき秩序、脳なき知性、中心なき組織。中心を欠いたまま秩序を生み出すという点で、すべて同じ原理の上にある気がしています。
芹沢さんの仰る通り、土着にこだわりすぎるのは確かに執着でもありますよね。これまでに出会った人たちの顔が浮かんで、つい辺境に肩入れしすぎてしまう自分がいます。極端に言えば、歌舞伎町にも、永田町にも語りはあります。どこの地域からでもいいし、どんな場所にも固有の語りがある。身の回りにある文化もまた貴重な共有資源ですよね。
山の奥深ければ深いほど生物多様性が高くなるわけではなく、むしろ人の営みの傍ら、適度な攪乱のある里山にこそ豊かな生態系が存在するように。
ジャック・デリダは『アーカイヴの病い』でフロイトの博物館を例に挙げ、アーカイヴは家父長の家に保管され、「物理的な場所と鍵を持つ人間が存在する」と論じています。記録する者が「何を残し、何を捨てるか」を独占的に決めてしまうという、逃れがたい権力介入の構図です。
しかし、もしかしたら現代においては、DAOのような分散型の仕組みを用いることで、この力の一極集中を解きほぐせるかもしれません。特定の誰かではなく、多様な参加者の意思によって記録が管理され、改ざん不可能な形で分散保存されること。DAOの本質は、単一の意思決定者を持たないことです。
「家父長の家」から、家のない場所に移す。鍵を外す。
「計画家なしの計画」という言葉を読んで、以前、芹沢さんがこれからのアートプロジェクトについて話していた時に「ディレクションレス」という言葉をポロッと仰っていたことを思い出しました。詳しくは聞けなかったのですが、今思うと「ディレクターなきディレクション」というのをイメージしてお話しされていたのかなと、手紙を読んで振り返っていました。
前回のドクメンタでは、ルアンルパのようなコレクティヴがディレクターとなり、ヒエラルキーの頂点に自分たちを置くことを拒否し、市民の知識を持ち寄り共有するという横並びの構造を体現しました。一作家が作った「物」でなく、そのことによって生まれる「事」に重きを置いた。上から下、中から外へという中央から発せられる号令によって生まれたものではなく、各現場から湧き上がってくる反応と応答によって自律した運動がそこにはあったように思います。それは「ディレクターなきディレクション」として機能していた、と言えるのかもしれません。
ruangrupaのlumbungは元々、食糧危機に備えて収穫した米を仲間や困窮者のために分配する共同米倉を意味する言葉だそうですが、共有する倉に余剰米を蓄えるのは、消費のためではなく分配のためです。アーカイヴもまた同じで、蓄えることが目的ではなく、必要な誰かのもとへ流れていくための一時的な寄り場であればいいと考えています。
共感を得て、その連鎖を広げ、各自は小さなままであり続ける。そういった鳥の計画の軽やかさが大事ですよね。それこそ分散型のプロジェクトの在り方だと思います。
集まることで形作られるアーカイヴや個々のデータはもちろん大切ですが、その「もの」にも増して、その活動のなかで生まれた「こと」に重きを置けるようなプロジェクトにしていきたいです。
2026年4月16日 川口弘貴
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川口さん
お返事が遅くなってしまってごめんなさい。
お手紙を読んでいると、分散型の「ことの進め方」について、ずいぶん思考が深まってきたなと思っています。DAOについては勉強中で、正直に言えば、自分自身が主体的に関わっていくには手遅れかも(笑)と思っているのですけど、現場を知らないが故に、希望を感じもしています。これからもいろいろ刺激をもらえれば嬉しいです。
粘菌の戦略には開いた口が塞がらないよね。ずいぶん昔のことになるけれど、NHKがライアル・ワトソンの『生命潮流』を番組化するということで、樋口源一郎が記録した細胞粘菌の映像を見たことがあります。それは本当に驚きの映像で、多分一生忘れられない(笑)。
普通の時、つまり栄養が豊富なときは、彼らはアメーバのような単細胞生物として、細菌などを食べて増殖しています。ところが餌がなくなるとストレス状態になり、サイクリックAMPを周期的に放出するようになる。これが集まれという合図になって、サイクリックAMPの濃度勾配に従って中心部に集まってくる。そしてここがびっくりなんだが、集まった単細胞の彼らは「偽変形体(ナメクジ状体)」と呼ばれる多細胞構造体となって、一つの生き物のように振る舞い始める。10個から50万個の細胞のかたまりが0.1ミリから2ミリ程の長さのナメクジのような塊になり、地面を這い回るんだ。
この塊はさらに構造化を進め、平たい台のような「足」、大きくて丸い「頭」などを形作っていく。足を構成する細胞にはセルロースが多く含まれ、頭を構成する細胞には多糖類が多く含まれるようになるそうだ。それでこんな形で這い回り、乾燥しやすく胞子散布に適した場所に到達すると、立ち上がって「子実体」を形成する。そしてこの段階で、各細胞は役割分担をすることになり、足の部分は死んでしまうが、残りの細胞は胞子となり、周辺にばら撒かれていく。そして環境が良好な状態になれば発芽して、再び単細胞生物としての生活を始める。
すごいもんですよね。やったことはサイクリックAMPの放出だけなんだ。それなのに状況に合わせて、こんなことが起こっていく。
計画があるんだかないんだかわからない戦略として、ぼくが好きなのはバクテリアが採用するランダム・バイアス・ウォークというやつです。ベン毛虫を見ていると、タービンのように回転していたかと思うと、一緒に一方向に進み、次には四方八方に走り回るという段階を交互に繰り返していく。走行段階における方向性は任意。それにもかかわらず、全体的に見ると、バクテリアたちは確実に食物濃度の高い方へと移動していく。走行段階にある間は、バクテリアは体外周辺の食物濃度を測り続ける。そしてもしこの食物濃度が変わらない、あるいは減少していれば、走行時間はおよそ1秒を超えることはない。立ち止まって、どこでもいい、今までとは違う方向に走り出す。しかし、もし濃度が増していれば、そのままゴーだ。こんな、近代的な計画センスから見れば行き当たりばったりの戦略で、彼らは確実に食べ物にありついていく。大したもんだと思う。
人生を振り返って、自分もこんなふうにやってきたのかもしれないと思うことがある。どこでもいい、どこかに向かって走り、その走っている間中、好奇心のセンサーを全開にして、何か気になること、つまり食物の濃度を測り続ける。その値が変わらなかったり、減少していたりすれば、立ち止まり、まったく別の方向に走りだす。こんなやり方で、結構面白いことに出会ってきたし、人生、それなりにハッピーだったと思っている。
デリダのアーカイヴについての指摘、まったくそうだなあと思いました。アーカイヴの重要性は疑いようもないけど、確かに家父長制的権威の構造が、本質的に内在しているね。鍵を持つ人というのは極めて象徴的な呼び名で、詩的なイメージさえ感じる。でもまだわからないのだが、DAOだと鍵は家父長が持つ一本ではないということなのかしら?小さなアーカイヴが無数にあるというイメージなのだろうか?でもどんなに小さなアーカイヴでも、アーカイヴを作るためには、取捨選択は必要になるよね?別に観念論的な議論をしたいわけではなくて、単純にDAOによるアーカイヴのイメージをもっと知りたいと思うんだ。
発酵についてももっともっと意見交換したいのだけど、今、すこし時間に追われていて、今回の返信はこんな感じで。
2026年4月29日 芹沢高志
川口弘貴・芹沢高志 往復書簡vol.10