最近ではAIへの社会的な関心も高まり、その発展と私たちの将来についていろいろな議論がなされている。このまま進化していけばAIが人間の能力を超える日が来るかもしれないとか、現在の多くの職業が脅かされるとか、その手の心配も多く聞かれる。しかしAIと言っても計算機であり、いかに高度化されたところで、初期条件と演算ルールが与えられた上で膨大なビッグデータを処理して、その範囲内での最適解を弾き出していくだけのことだ。要するに我々にとっては情報処理に関する外部補助装置に過ぎないのであって、メガネとか自転車のようなものだと思えば良い。確かに自転車から自動車への跳躍は社会を大きく変えていったが、歩行の外部補助装置という本質は変わらない。もちろん社会的な影響は多大なもので、情報処理に特化して生きてきた多くの専門家たちはその役割を終えることになるかもしれない。
しかし私の心配はまた別なところにある。当たり前の話だが、高性能の計算機を走らせるためには膨大な電力がいる。さらに、あまり意識していなかったが、大量の真水がいる。AI向けの高性能サーバが集積された「データセンター」では計算処理の量が増えれば増えるほど大量の熱が発生し、それを冷ますために強力な冷却装置が必要となって、そこに真水が必要となるわけだ。まだAIのウォーターフットプリントを見る限り、AIがライフサイクル全体で消費する水の量は、農業に比べれば取るに足らないということだが、例えば飲料水にも使っている貯水池から水を利用するデーターセンターなどでは、AIと人との間で水の取り合いが起こっているケースもあるらしい。地球上で我々が飲料水として利用できる水はそんなにあるわけではないし、地域的な偏りも極端だ。水の取り合いが、新たな殺戮の引き金にならなければいいなと真剣に思う。
しかしそれ以上に心配なことがある。それは私たちの方のAI化だ。
ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルがとてもうまい例えをしていたが、ウエストワールドのような状況が生まれていくというわけだ。ウエストワールドは有料チャンネルHBOの人気SFドラマで、西部劇の世界を再現した未来のテーマパークで、自我に目覚めたアンドロイドたちが反乱を起こすという物語だが、ガブリエルが指摘しているのはその物語そのもののことではない。もっとメタレベルの指摘なのだ。これはドラマだから、ここに出てくるアンドロイドたちも俳優が演じている。人間がアンドロイドのフリをしているわけで、その状況を彼はメタファーとして使っていた。
確かに、与えられた問題に対して、なるべく迅速に答が出せるような人物が評価される組織は多いし、そういう人間をより多く輩出していくように教育のシステムも組まれてきた。すでに採用している組織も多いのではないかと思うが、人材評価をAIに任せる組織も、「合理的」という理由から出てくるだろう。そうなれば、組織内で生き残るために、人はAIに忖度するようになるだろうし、AI的に思考し、振る舞うようになっていく。社会のウエストワールド化であり、演じている俳優さんたちには申し訳ない言い方だが、AIのように振る舞う、AIを真似する、AIを演じる人々が増えていく。マルクス・ガブリエルが危惧するのは、そんな状況だろう。
生成AIの登場で、アートの領域でも創造性の危機を叫ぶ人も出てきた。しかし私はそうは思わない。確かに時流のトレンドに乗って自らの創造を追いかけているような「クリエイター」には驚異かもしれない。しかしアートという領域の本質は、そこにはないと思う。それは「解決」ではなく「発見」なのだ。問いに答える能力ではなく、問いを生み出す能力、謎を生み出す能力なのだと私は思う。
若い頃、ロートレアモンの詩集で、「ミシンと雨傘の、解剖台の上での邂逅のように美しい」という一節に出会って、度肝を抜くとともに、確かに美しいと思ったことがある。私にとってアートとの出会いは、こういう衝撃なのだ。確かに生成AIなら、こんな突拍子もない組み合わせを、もっと効率よく、即座に、大量に弾き出してくるだろう。しかしその前提には、それを弾き出してくるようなうまい質問をAIに投げかけねばならない。適切な問いを設定しなければならない。そうすればAIは心強いパートナーになってくれるはずだ。
こう考えてくると、読み間違えや聞き間違いといった間違うこと、忘れること、ゆっくりと考えること、のろまなこと、「エビデンス」もないままに直観すること、そんな今は低評価な特質の方こそが、このAI時代に求められていく人間の能力ではないのだろうかと、(多分に自分に都合よく)、思い始める。
(2024/8/7)