これまで直観だけに従って、深く思い悩むこともなくやってきたから、そんなに悪くはない時代を生きてこられたなあと思ってもきたのだが、最近の対流圏の状況を見ていると、そこまで能天気にやっていてはいけないのかもと思うようになってきた。そこで、あまり楽しい話ではないのだが、自分が感じる今の気持ちを述べておこう。
パラノイア・ナショナリズムという概念があるようだ。人類学者ガッサン・ハージは1990年代後半から世界各地で広がり始めた排外的な風潮を、「パラノイア・ナショナリズム」と呼んでいる。(『希望の分配メカニズム』)
なぜ、そんな傾向が生まれるのか?人間は「希望する主体」であり、民主主義社会はその希望を平等に配分するための「希望の分配システム」なのだとハージは見る。しかし経済のグローバル化に伴って規制緩和や格差の拡大、福祉の縮小などが進んでこのシステムがうまく機能しなくなり、その周縁に追いやられていく人々が増え始めた。彼らは希望が分配してもらえない状況に慣れていないから、「ナショナリズム」を「母なる国家」が発行する「希望のパスポート」と考え始める。そうなると母親が自分たちの税金を使って移民や難民、生活保護受給者たち、既存の社会的弱者を守ろうとすると嫉妬を始め、さらには敵視し、国家を食い潰す外敵だと憂慮するようになっていく。そして、他の人は気づいていないのに、そこまで母のことを憂慮する自分は、母にとってなくてはならない存在なのだと一方的に納得していく。ハージは彼らを「内なる難民」と呼ぶ。そして弱者が弱者を叩く構図が生まれていく。
非常に納得がいく分析だと思う。まだ極端なまでには進んでいないが、こういう風潮は他人ごとではなく、ここ日本でも深く広がってきているように思えてならない。そんな状況がさらに進んで決定的になる前に、とにかく止めなければと強く思うのだが、これが難しい。パラノイア・ナショナリズムこそ諸悪の根源だと躍起になって攻撃すれば、自分も相手と同じ顔になっていく。なので、どうしたらいいのかわからないのだ。それに、こうした分析を披露したところで、パラノイア・ナショナリストたちには屁の河童、聞く耳も持たないだろう。なんせパラノイア、病気なんだから。ここがとても悩ましく、もどかしい。
どうしようもないからもう少し考えていくと、そもそもこんな風潮が生まれてくる前提には、世界は相入れない二つに分けられると考える思考回路があるように思う。好きか嫌いか、白か黒か、善か悪か生か死か、男か女か?仮にこれを二者択一の論理と呼べば、一つの側に立てばもう一方の側は相入れないものとされてしまう。しかし、世界はそんなにも単純なものなのか?
若い頃、性に関する入門書を読んで衝撃を受けたことがある。簡単に男と女というけれど、まず形態形成の段階、次にホルモンバランスの段階、そして社会的人格形成の段階と、少なくとも3段階で男、女は別れるので、一番単純に考えても男と女には2の3乗、8通りのパターンがあるということになる。ずいぶん昔の話だから、今ならさらに学説も洗練されていることだろう。
その話を知って、私は男と女も酸性、アルカリ性のようなもの、pH(ペーハー)の違いのようなもんなのだと納得した。それは確立した属性というよりも、プロセスの状態なのだ。以来私は、すべてを両極の間に漂う状態と考えていく癖がついてしまった。
しばらく真剣に考えることもなかったが、あらためて「プロセス中心の世界観」の基本の基本に立ち返っていきたい。現在の自分の戸惑いを前にして、まずはそこから始めたいのだ。
(2024/7/23)
<参考>「偏執的ナショナリズム」大治朋子 毎日新聞2023年5月9日朝刊