2021年7月16日、早朝の電車に乗って原宿に向かった。目の「まさゆめ」プロジェクトで巨大な顔が代々木公園で浮上するのだ。私はプロジェクトの協力者として現場に同席したが、一般には浮上場所も浮上時刻も知らされてはいない。これは事前に告知することで一ヶ所に大勢の人間が集まる、つまり密になることを避けるという新型コロナウイルス感染症対策の一環でもあったが、さらに深い意味もある。つまり、偶然に遭遇する機会を万人に保証したいという想いで、ここに「目」というアーティスト集団の志向性を強く感じる。彼らは自分たちの「作品」を、あたかも自然現象かなにかのように受け止めてほしいと願っているのだろう。


現場に着くと、気球には空気が半分ほど入れられていた。作業者たちが慌ただしく駆けまわり、しばらくすると気球に強力なバーナーから熱風が注ぎ込まれはじめた。気球はみるみる膨れていき、ゆっくりと空中に立ち上がる。襞が伸びて張りとなり、どの瞬間とは言えないのだが、突然、本当に突然、気球は女性の顔になった。この瞬間、私は深く感動してしまった。奮い立たせるという意味でインスパイアinspireという英語があるが、これはin(中に)spire(吹き込む)ということで、まさに精気が吹き込まれた瞬間を見る思いだった。インスピレーションとはひらめきだが、霊感という意味もある。


魔術的な瞬間と言ってもいいだろう。それはシンデレラでかぼちゃが馬車に変わる瞬間のようなものだが、その瞬間に立ち会うには、自分もその文脈のなかに巻き込まれていなければならない。つまり他人事であるのなら、私たちは魔法を目撃することはできないのだ。

 

ライアル・ワトソンの『未知の贈りもの』[1] に、こんなアマゾンでの彼の体験が紹介されている。同行する三人のブラジル人の一人が、急にひどい歯痛に襲われた。親知らずの根元が腫れ上がり、高熱も出ている。医者がいるような場所ではなかったし、抗生物質も持ち合わせがない。しかし、二、三時間支流をのぼれば地元の治療師がいると仲間の一人が言う。そこでこの治療師のところに行くのだが、その治療が非常に興味深かった。インディオの言葉で歌を歌いながら、治療師は指で患者の親知らずを、いとも簡単に引き抜いた。これだけでもすごいことだが、私が、もちろん著者のワトソンもだが、驚いたのは、その後に起こったことだった。

治療師は、まだ仕事は終わっていない、患者の痛みを取り除かなければならないと言う。

彼は地面にあぐらをかき、目を閉じて身体を前後に揺すり始めた。すると、患者の口の右端から血が滴り、あごのところまで流れていくのだが、その血の糸に続いて、なんとグンタイアリの群れが整然と列を成して這い出してきたのだ。そして、周りで治療を見ていた人々のあいだでは、どっと笑いが巻き起こる。

ワトソンはこの笑いを理解できない。しかし、後になって、この地方の言葉では苦痛という言葉とグンタイアリという言葉が同音異語であることを知って、深く得心するのである。確かに治療師が言ったように、痛みは患者から立ち去っていった。しかし、これはただの駄洒落、言葉遊びなのか?そう、言葉遊びではある。しかし同音異語であることを知る同じ文化圏の人々にとっては、文脈は共有され、それが何を意味しているのか、はっきりと「わかる」。しかし文脈を共有できない、あるいはしようとしない人にとっては、ただの意味もない賑やかしのイベントにすぎない。


この瞬間から私にとって、「まさゆめ」の気球は、気球ではなく、まさしく彼女の「顔」になった。ちょうど能面が演者の微細な顔の傾きによってさまざまな表情を浮かべるように、ある時は高飛車な目つきで私たちを見下ろし、ある時は怒りの表情、あるいは哀しみの表情で斜め上空を眺め、ある時は恥じらうように代々木の森から顔を覗かせる。私はさまざまな場所から彼女の顔を眺めたが、その表情は刻一刻と変化して、飽きることがなかった。


1999年8月8日、広島。私は元安川の対岸から原爆ドームを見ている。唐突に元安川の土手に組んだ両手が映し出され、その瞬間、原爆ドームは人格を持った。見慣れたドームの建物が頭と肩、座した人型へと変わっていき、次々に何かに憑依されるように、手振りと共にこの街の物語を語りだすのだ。語り手は次々に代わっていく。あの日のことを語る男、あの日のことを語る女、あの日のことを知ることもない若い女。

クシュシトフ・ウディチコの「プロジェクション・イン・ヒロシマ」という作品だった。街を巻き込んだアートプロジェクトとして、「まさゆめ」を目撃しながら、私のなかではあの時と同じような深い感動が湧き上がっていた。

しかし、ウディチコの原爆ドームは饒舌だが、「まさゆめ」の彼女は何もしゃべらない。ただ、私たちを見つめるだけだ。

刻一刻と表情を変えていくから、いつしか私は彼女と沈黙の対話を始める。新型コロナウイルス・パンデミックに翻弄される私、地球温暖化にどうしようもない苛立ちを感じる私。世界中で激しくなる戦闘や弾圧にやるせない憤りを感じる私。ますます広がっていく経済的格差をなんとかせねばならないと焦る私。そんな私を、ある時は尊大に、ある時は悲しそうに、ある時は恥じらうように、彼女は黙って見つめるだけだ。何も語らないから、私は自分自身と対話をしているのだろう。彼女は私の鏡となるのだ。


私たちが上空を見上げることが重要なのではない。私たちが上空から見つめられていることが重要なのだ。彼女は何も言わず、私たちをただ見つめる。彼女は何を思うのか?


この問いこそ、アートが産み出す力だと思う。

(2022/1/17)


[1]ライアル・ワトソン『未知の贈りもの』村田恵子 1979 工作舎