ここのところ、六甲ミーツ・アート芸術散歩2019の審査やART PROJECT KOBE 2019 TRANS- のことで比較的長く神戸に滞在することが多かったが、そうなるとぽかんと時間が空いてしまうときも出てくる。神戸の中心部はコンパクトで、歩いて行ける範囲にいくつも映画館があるから、こういう時はとても便利だ。東京だと映画を観るために時間を調べて映画館に出向くが、ここでは映画館に出向いて時間を調べ、気になった映画でタイミングが合えばそれを観る。ちょっとした違いなのだが、えらく新鮮な気分になる。
そんなわけでけっこう映画を観たのだが、なかでも白石一文の小説をもとに、荒井晴彦が監督・脚本を手がけた『火口のふたり』には、予期もせず衝撃を受けてしまった。R18で、セックスシーンがこれでもかと続くのだが、柄本佑と瀧内公美のふたりがとても魅力的で、自然に引き込まれていく。あの年代の宙ぶらりんな感覚は身に覚えがないわけでもなく、違和感もない。それに何と言っても会話がとても自然で、ごく日常的な身近さで事が進んでいく。彼らの言う「からだの言い分」とは、うまい言い方だな。だからだろう、ラストの火山の爆発という、本来なら取ってつけたような唐突な展開も、ごくごく自然なこととして受け入れてしまう自分がいて、それがとても面白かった。
舞台が秋田であったことも良かった。8月、秋田公立美術大学の「旅する地域考~辺境を掘る夏編」という現地滞在型ワークショップに加わり、後生掛温泉やその裏に広がる地獄群の後生掛園地、玉川温泉、銭川温泉といった秋田県北東北内陸部を回ってきたので、それなりに秋田の空気感はからだに残っている。それに映画では、西馬音内(にしもない)の盆踊りが映っていたが、それは印象的だった。踊り手は深い編笠や目だけを出した黒頭巾を纏い、みなが亡霊、ゴーストなのだろう。風力発電のプロペラが立ち並ぶ、海辺の空虚感も心に残る。
東京に戻ってから、久しぶりに今福龍太と会うことになり、彼が送ってくれた新著『宮沢賢治 デクノボーの叡智』(新潮選書)に目を通し始めるが、冒頭の序のところを読んだだけですっかり虜になってしまった。彼は2014年9月27日の木曽御嶽山の大規模噴火を取り上げ、賢治の火山に対する意識と、現代の我々の火山に対する意識との大きな隔たりについて論じていたが、これはそれぞれが寄って立つ世界の見方の大きな隔たりでもある。火山の噴火は、それに巻き込まれた人々にとっては痛ましい悲劇だが、我々はそれを安心・安全の名のもとに、「憎む」べき対象と捉えるべきことなのだろうか?それは、触れにくい話題だが、津波についても言えることだ。
私もまた、小さい頃から火山の爆発、あの立ち上る噴煙と流れる溶岩には、なぜかどうしようもないほどの畏敬の念を抱いてきた。目の前で見たことはないのだが、それは恐ろしくも神々しい現象に思えていた。
賢治の世界でも火山噴火は大きな悲劇を生むが、火山は私たちと切り離されてはいない。この、自然と完全には切り離されていない感覚を、人類学者である今福龍太は大切に思っているのだろう。私は彼の文章を、噛みしめるように、一文一文、深く頷きながら読み進めた。
そしてまた神戸。知人に連れられて、新長田で夕食をともにする。彼女は2018年のキラウエアの大爆発の時にハワイにいて、その時のことを話し始める。大きな地震があり、その後キラウエアのハレマウマウ火口で爆発が起きた。新たな火口が開き、40年近く前に生まれた溶岩の道が復活したという。その真っ赤な道は、まるで血管のようだった。
ハレマウマウ火口といえば、火山の女神、ペレホヌアメア、つまりペレが住むところだ。人々はペレを怖れるとともに敬ってもきた。ここにあるのは、宮沢賢治の世界と通底する感覚だろう。
そして彼女は、このあとペレは移動を始めたと、地元の人々が言っていると教えてくれた。それ以上、その意味を尋ねはしなかったが、ペレはどこに行こうとしているのか?たしかに、米国地質調査所ハワイ火山観測所は2018年12月4日に、35年続いてきたキラウエア火山の噴火が止まった可能性があると発表している。とはいえ、すでに学会でも「死火山」「休火山」という分類は使わなくなっており、火山活動が停止したわけではない。
まったく脈略はないのだが、ひと月もたたないうちに、こんな風に火山の噴火が三つも意識に入ってくると、ある種の予兆に思えてくる。
正直にいえば、最近はあいちトリエンナーレをめぐる問題でもそうなのだが、溢れかえる言葉に少々疲弊していた。言葉ばかりが大量に、しかも急速に行き交う時代になってしまった。
火山の噴火は言葉を介することもなく、この星が生きていることを直接的に伝えてくれる。その重みを、あらためて考えてみたいと思いはじめた。
これは私の、「からだの言い分」なのだろう。
(2019/10/28)