銀座のメゾンエルメス屋上で、西野達の『天上のシェリー』を観た。

エルメスのビルの屋上にはFRPでできた騎馬像が設置されており、今回知ったのだが、このエルメスのシンボルはスカーフを持った「花火師」なのだそうだ。パリの本店、ニューヨークのマディソン店、そしてこの銀座店の3店舗に置かれている。
西野は今回、この騎馬像のまわりに女の子の部屋をつくりだした。8階のフォーラムについたあと、非常階段と外に仮設した工事現場の階段を登り、私は銀座中空に突如出現した彼女の部屋を訪ねる。
そこはいかにも思春期の女の子の、こざっぱりとした自室である。彼女自身は不在だが、白色の壁と白色の天井。フローリングの床には白色のムートンが置かれ、低い木製のテーブルとクッションがふたつある。テーブルの上に無造作に置かれた雑誌や漫画も、われわれの頭のなかにいる「少女」のセレクションそのものだ。壁には勉強机。クローゼットを開け、なかの物入れをそっと覗くとき、思わず後ろめたささえ感じるほどの完璧さだった。
しかし、この彼女の部屋には、一カ所だけおかしなところがある。色鮮やかな暖色系の枕や布団が置かれたベッドの上に、白馬にまたがった例の花火師がいる。馬の大きさは、ほぼベッドと同じくらい。馬の背中で派手な服に身を包んだ花火師も実際の人間より一回り小さく、その顔の優しさもあって、少年のように見える。馬も花火師も写実的ではなく、どこかおとぎ話の挿絵のような面持ちだ。枕の下、彼女が寝ていればちょうど首のあたりに白馬の右前脚があり、左前脚は、歩を進めるために宙にある。
西野の色彩の選定が実に巧みなので、このあり得ないシチュエーションも、日常のようになじんでいる。つまり、花火師は一瞬、たしかに部屋のインテリア、少し不釣り合いな場所に置かれた不釣り合いな大きさの置物に見える。しかし、次の瞬間、我にかえって戸惑うのだ。いったいなぜ、この置物はこんなところに置かれているのか?と。不思議に思ってあらためて眺めていると、今度は突然、それは妙になまめましく変容し、彼らの鼓動が聞こえてくるような錯覚に襲われる。あわてて眼を背ければ、窓の外には銀座の空が広がり、自分がメゾンエルメスの屋上にいたことを思い出す。

西野達は自分の名前も作品と考えて、それも「販売」しているから、当時は西野達郎という名前だったが、横浜トリエンナーレ2005では『ヴィラ會芳亭』という作品を発表していた。横浜中華街、山下町公園内にある東屋、會芳亭を取り囲むようにプレハブを建設し、そこにホテルの一室を出現させたのだ。
横浜トリエンナーレを制作した側の人間としては多少書きにくいけれど、個人的な見解を述べれば、私は『ヴィラ會芳亭』よりも今回の『天上のシェリー』を高く評価する。『天上のシェリー』は、私がこれまで観てきたさまざまなアート作品のなかでも、ひときわ抜きん出たもののひとつと言える。
『ヴィラ會芳亭』で素材に使われた東屋は公園内にあり、そもそもパブリックなものだ。つまり、パブリック・アクセスが保証されているわけで、それまでも立ち寄りたければ立ち寄ることができる、社会に開かれた存在である。しかしそれだから、街に生活する者にとっては、どちらかといえば普段見慣れた日常のなかにある。西野は2002年、バーゼルで、教会の屋根に取り付けられた風見鳥の天使のまわりにリビングルームをこしらえて、その天使をテーブルの上の置物に変えてしまったことがあったが、この作品の写真を見たときは、本当に衝撃を受けたものだ。市民は教会の屋根の上に天使がいることは知っているが、そんなものは一生、まじかには見られないものと、はなからあきらめている。そんな常識を、西野はアートの力で覆した。それもテーブルの上に無造作に置かれた、古ぼけた青銅製の置物として。
メゾンエルメス屋上の花火師は私企業のシンボルであり、教会の天使よりも公共性は低いけれど、普段は下から眺めるしかない存在であり、アートがそういうものに対するアクセスルートを切り開くという意外性や先鋭性においては、『ヴィラ會芳亭』よりもはるかに明快だろう。
また、中華風の瓦屋根を持つ東屋をベッドの天蓋に見立てる発想はもちろん傑出しているが、ある意味でそれは、過去のラブホテル設計者の想像力の射程内にある。ここまで豪華なものはあるはずもないが、こうした奇想の部屋を有するラブホがあったとしても驚きはしない。
さらにいえば、これはたぶんにわれわれ展覧会制作者側の力不足に起因していたが、まわりのプレハブに関して大きなジレンマがあった。つまり合法的にこの作品を実現する際、ブルーシートで包んだ仮設の現場を出現させることが最も困難で、皮肉にも、普通の、ある程度立派な外装をもつプレハブ建築が、最も安価に実現できる解決策だった。結果として、外から見たとき、『ヴィラ會芳亭』は街の日常とあまりにもなじんでしまった。突如出現した異物感が、『天上のシェリー』に比べれば弱い。

『天上のシェリー』には魔法を感じる。ここで、西野達はマジシャンだ。普段は近寄ることもできないビル屋上の彫像のまわりに少女の部屋を出現させ、エルメスのシンボルをまったく違うなにか、彼女の部屋の調度品にしてしまった。そして清潔でかわいく、エロティックで胸騒ぎを覚えるひとつの部屋が、銀座の中空に幻のように生まれ出る。彼はそこに展示する「作品」をつくるのではなく、その「まわり」をつくることで、この不思議をつくりだした。

最近、文脈の変換ということを考える。
ライアル・ワトソンの『未知の贈りもの』のなかに、こんなアマゾン奥地での治療師のエピソードが紹介されていた。
同行していた現地人がひどい歯痛に襲われて、抗生物質もなかったから、ある治療師のもとに駆け込んだ。インディオの言葉で歌を唄いながら、口のなかに指を突っ込み、患者の親知らずを難なく引き抜くその治療のプロセスも面白いが、驚くのはそのあとだ。患者の口から血がしたたるが、その一筋の血に続いて、黒いグンタイアリが列をなして、口から這い出てきたのだという。まわりに集まっていた群衆はどっと大笑いするが、ワトソンは分けもわからず、ただ頭が混乱するばかりだ。そしてあとでわかるのだが、その地方の言葉では、苦痛という言葉とグンタイアリが同音異語だった。つまり治療師は、この語呂合わせで、患者の痛みを立ち去らせようとしたのである。実際、効果はあったという。ある約束事を共有するものにとって、これはたしかに有効なのだろう。どうやって口からアリを出したかという以前に、私はこの状況そのものをアートと対比させて、とりわけ興味深く思うのだ。

もうひとつ、ダライラマのことも思い出す。
タイトルも何も覚えていないが、以前、ダライラマを追ったテレビ番組を観たことがある。遠くの村の住民がやってきて、自分たちの村を守る老木が枯れかけているから、なんとかしてくれと彼に懇願する。この偉大な宗教的指導者がどのように対応するのか興味深く観ていたが、彼は、そうか、じゃあ行こうと、意外なほど気軽に言う。いくらなんでも、枯れかけた木をよみがえらせることなど彼にもできないだろうし、いや、ほんとに神秘の力でできるのか、それに、もしできなかったら、彼の置かれたポジションから、そのダメージは致命的とも思われたので、見ている私の方がはらはらしてしまう
。 彼は村に向かった。そしてその大木が見えてくるが、これはもう誰が見ても、すでに枯れている。で、ダライラマはどうしたか?彼はその木の根元に行くと、周囲を見回し、実生から育ったと思われる若木をめざとく見つけると、一瞬のためらいもなく、祈祷の身振りを付けながらこう宣言したのだ。神さまは今、こっちの老木からこっちの若木に移動した。もう、心配なし!
その鮮やかな手腕に、私は腰を抜かさんばかりに驚いた。ここでは神秘好きの人間が期待する超常的な現象は起こらなかったが、ダライラマはみんなが納得できるやりかたで状況を劇的に変えてしまった。老木には物理的な意味でなにも手を付けないまま、彼は全員の希望を満たしたのである。

この部屋があろうとなかろうと、ただそこにあり続ける花火師の顔を見つめながら、私はあらためてアートの力を思うのだ。
(2006/09/07)