今はもう夏も終わろうとしているが、梅雨の季節のある夜に、突然不思議な気分に襲われた。
mRX-8000というMacintosh用のインターネットラジオをダウンロードしたのだが、そのGUIのデザインやチューニングのときの音がなつかしく、ときどきAmbientとかTurkishとかLatinといったジャンルの局を、ほとんど無作為に選んで聴いている。この地球の遠く離れたさまざまな場所に、それらの局はあるのだろう。モンスーン・アジアを思わせる生暖かく湿った夜風が窓から吹き込んで、今、自分がどこにいるのかわからなくなる。
ヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』を思い出した。この映画に対する自分の想いは複雑で、パリ、リスボン、ベルリン、北京、東京、サンフランシスコ、そしてオーストラリアの砂漠地帯と、主人公たちのすれ違いの旅に現れるランドスケープはどれも私好みだし、SF仕立てのストーリーも、豪華なキャスティングも、みんな大好き、でも、だからこそ、すごく割り切れぬ気持ちも残る作品だった。まあ、正直言うと、ヴェンダースの作品は自分にとって、だいたいいつもそうなんだけど。 で、なぜ急にこの映画を思い出したのか? もうよく覚えてもいないのだが、たしか映画のラストはソルベイグ・ドマルタン演じるヒロインが、海洋汚染監視官として、地球周回軌道から眺める地球だったような気がする。mRX-8000にはサウンド・スコープという窓があって、そこで地球が回転しているから、たぶんそのイメージが引き金になって、古い記憶がよみがえってきたのだろう。
まあ、そんな単純な連想なのだけど、しかし案外、自分の頭のなかで気になっている他の考え事が、深いところで、こんな連想を導いたのかもしれない。というのも、『穹+』という雑誌から1956年、つまりちょうど半世紀前を主題にして、原稿を書いて欲しいと依頼されていた。56年といえばニキータ・フルシチョフが2月の深夜モスクワで、スターリン糾弾の演説を4時間にわたってまくしたてた年。そしてその11月にはソ連がハンガリーの大衆蜂起を武力で制圧し、次の年にはスプートニク1号を打ち上げた。
そこからはじめて、そうだなあ、この50年を自分なりに考えれば、われわれが地球とか宇宙をはっきり意識しだした50年だったと考えて、そういう眼でこの半世紀を眺めてみようと考えた。それで、スプートニクの57年といえば、フリーマン・ダイソンがセオドア・テイラーに原爆推進宇宙船のアイデアを聞かされて、「オリオン計画」に加わった年でもあるし、原稿は必然的に、ケネス・ブラウワーの『宇宙船とカヌー』を下敷きに、地球の生態学的、あるいは文化的多様性を守ろうとする意識と地球外宇宙に進出しようとする意識、ふたつの流れについて考えてみることになっていった。 当たり前のことだが、このふたつの流れは対立するものではない。両立できるふたつの流れだ。しかし私自身について言えば、まず生態学的、文化的多様性を守ろうという意識に軸足を置いてこれまで生きてきたし、それはおそらく残された人生においても変わらないだろう。この意識には、近頃の限定的な用法からは離れても、「グローバリズム」という言葉では表現できない何かがあって、たぶん「プラネタリズム」と呼んだ方がよりしっくりくる。もちろん、これもわれわれが軌道上、あるいは月面からの眺めを手に入れることで獲得しえた地平だし、地球外に出て行くことに異議を唱えるわけではない。でも、一方で大規模テクノロジーの清潔主義が大嫌いで、全面禁煙の長距離フライトさえ敬遠したい自分にとって、スペースコロニーなり月面基地での生活は身の毛がよだつから、あえて人類の地球外進出の夢には触れぬまま、ここまで来た。
けれど、9.11以降、とくに最近の国内外の凄まじいまでの精神的な自閉状況を目の当たりにすると、ただこの惑星上の多様性を謳歌しているだけでは、片手落ちなのかもしれないと思いつつある。いつの場合でもわれわれは「出口」を設計しておく必要がある。それを実際に開けて旅立つかどうかは別にして、いつでも開けられる扉は必要なのだ。そのことを切実に意識しだした。『穹+』の原稿では、そんな心の微妙な変化について書いている。
実は時々迷ってもいたのだが、今ははっきりと、自分は地球でも宇宙でもなく、軌道上にいるのだと割り切る。8月6日、昭和女子大人見記念講堂で、ユッスー・ンドゥールのコンサートを聴いた。このセネガル出身の偉大なミュージシャンの存在に触れたときも、当然のように、私の頭のなかの眼下では地球が回っていた。
(2006/08/31)