今まではそんなことはなかったのだが、NHKの連続テレビ小説を「あんぱん」以来見るようになった。今は「ばけばけ」で、小泉八雲、セツ夫妻をモデルにした物語だ。ここで主題歌「笑ったり転んだり」を「ハンバート ハンバート」が歌っている。
日に日に世界は悪くなる
気のせいか?(そうじゃない)
このつぶやきは今の自分の実感でもある。こんな歌を毎朝聴いて始まる一日が、この2025年という年の、年の瀬の日常なのだ。
日に日に世界は悪くなる。世界を見回してみても、この日本という国をみても、私はそう感じている。特定の政治的リーダーだけの問題ではなく、こうした政治状況を良しとしている人々が多数いると聞いて、それこそが、自分の苛立ちの根幹にある。とはいえ、政治的に無関心になっているわけではないし、絶望しているわけでもない。自分の直観から深く納得できる意見にも数多く出会えているし、想像力を刺激してくれる芸術表現にも接することができているから、個人のレベルでは十分に満たされている。自分にできることは、そういう共感する「ものの見方」や芸術作品を、これはいい、素敵だし重要だと言い続けていくこと以外にないだろう。
最近は極論が好まれるようだ。これも時代を覆う苛立ちの気分の反動だろう。しかし正解はひとつという私たちの刷り込みの影響もあるように思う。すべては結びついており、関係の網の目のなかで考えれば、極端に何かを動かせばその歪みも半端なく全体に伝わっていく。今、日本では軍事力の増強が国防という観点から最重要だとする意見に溢れているが、これについては「通販生活」の敵基地攻撃能力に関する「女性識者12人の声」のなかで、田中優子法政大学名誉教授が述べていた意見にそうだなあと同感する。「恐ろしいことに、日本は武力以外の準備をしていません。食料自給率を上げることもせず、国民の避難の方法も考えず、攻撃された場合の医療体制も整えず、最も悲惨な結果につながる原発への攻撃可能性に至っては、防御と停止を考えるどころか再稼働と新設を言い始めました。」[1]
政策というのは、関係の網の目を注意深く見渡しながら決めていかねばならないものだ。これをやればすべて解決、なんて都合の良い答えがあるわけもない。
朝日新聞に掲載されていた小山田徹京都市立芸術大学学長の「京都駅前の再開発 商業アートはもういい 「百年の森」こそ未来に」というインタビューも深く同感しながら読んだ。
JR京都駅周辺では京都市が進める「文化芸術を核としたまちづくり」への開発投資が盛んに進んでいるようだが、小山田さんはこれに真っ向から異議を申し立てたわけだ。彼はいつもの調子で淡々と語るだけだが、彼のポジションを考えれば、なかなか勇気のいることだろう。「文化芸術を核とした」という文言は、日本中、特に大都市地域では常套句のように氾濫しているから、これは一京都だけの問題ではない。彼の意見は一つの明確な「態度」を示しているわけで、こうした態度こそ、私が真に共感するものだし、大きな希望と言ってもいい。チームラボの「バイオヴォルテックス京都」や来年度開業予定のアメリカの体験型アート施設「スーパーブルー京都」などを、「アート施設」ではなく「エンターテイメント施設」であるとはっきり断言し、村上隆のスタジオ建設という華々しい話題にもさしたる反応はしない。それに対して彼が提案するのは「森」だ。京都の駅前に出現する森と、市内を繋いでいく緑のネットワーク。まったく、100%同意するし、みんなが真剣に耳を傾けるべき構想だと考える。これこそ「未来の発見!」なのだと私は思う。[2]
こういう「態度」に触れると、心底安堵する。絶望していないと言ったのは、まだこうして影響力のある、責任ある立場の方々が、こんな意見をきちんと表明してくれているからだ。日に日に世界は悪くなるけれど、まだまだ絶望的ではない。
もうひとつ、2025年の年の瀬に書き残しておきたいと思うことがある。三宅唱の映画、「旅と日々」を観たことだ。自分がP3を立ち上げた時、「精神とランドスケープ」というコンセプトを立てたのだが、その合言葉にここまで呼応した作品に巡り会えて、言葉もなかった。何が起こるという映画ではないのだが、この映画を観る時間そのものが旅だった。
この旅の感覚こそが、自分を生かしてくれている源泉なのだと改めて確認する。
(2025/12/24)
[1] https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/voice/
[2] https://www.asahi.com/articles/ASTD50SGHTD5PLZB00QM.html