全国で有機フッ素化合物のPFASによる水質汚染が問題になっているが、岡山県吉備中央町の事例には驚いてしまった。PFAS除去のために使用された活性炭が、フレコンバッグに入れられて野ざらしのまま、水源上流地に放置されていたらしい。放置した事業者は使用済み活性炭を高温で焼いて再生するリサイクル事業を手がけているとのことだが、いちいち持ち込まれる使用済み活性炭がどんな目的で使われてきたのか、その出自についてはチェックもしないで受け入れているのだろう。この事例は、私にはとても象徴的に思える。

 

PFASのように人為的に作り出された物質は、自然界のサイクルの中では分解がされにくい。例えばPFASは炭素-フッ素結合が非常に強力な結合であるために、容易に分解されることがない。自然界では生産 ― 要素への分解 ― 分解された要素を使っての再合成というサイクリックな過程が繰り返されているわけだが、こうした人為的な合成物に関しては、その分解にとてつもない時間がかかるものも少なくない。我々の側からすれば、それだけ「耐久性」に優れていると認識されるわけで、事実PFASも「永遠の化学物質」と呼ばれてきた。

これは放射性廃棄物でも同じことで、例えばプルトニウム239の半減期、つまり初めの原子核の数が半分になるまでの時間は24,000年とされている。「廃棄」という名で、目の前から見えないようにしたところで、物質そのものが瞬時に消えてなくなるわけではなく、長い時間、私たちが生きていく環境内に滞留していく。

PFASはにわかに注目されることになったわけだが、もっと日常的に使用されているもの、例えばプラスチック製品も深刻な問題を抱えている。日常利用で劣化したり、放置されたプラスチックゴミが紫外線や波の作用で小さく砕かれていくと、いわゆるマイクロプラスチック(MP)が生まれる。直径が5mm以下の微小プラスチック粒子のことだ。最近の海洋研究開発機構の調査によると、房総半島沖の深海には年間推定28,000トンものマイクロプラスチックが沈降しているという[1]。世界のプラスチック生産量の増加量から類推すると、この海域には1950年代以降、56万7000トンのマイクロプラスチックが沈み、深海底に蓄積されているのではないかとの推計もなされていた。

マイクロプラスチックの人体への影響はまだよくわかっていないようだが、頸動脈にできた隆起を切除して調査したところ、58%からマイクロプラスチックが検出されたというイタリアの研究チームの報告があった[2]。電子顕微鏡で見ると、免疫細胞内にマイクロプラスチックが取り込まれていることも分かったようだ。頸動脈の隆起は動脈硬化の原因になると言われている。

 

すべては自分たちのところに戻ってくるわけで、因果応報ということになるのだろう。

 

こんな事態を考えていると、あらためてテクノロジーアセスメントや環境アセスメントの必要性を強調せざるを得ないわけだが、その前に、そもそも私たちの基本姿勢に疑義を唱えたくもなる。深刻な影響を与えるような有害物質が出てくると、クローズドなサーキットを作って封じ込めればいいという技術至上主義的なヴィジョンが首をもたげてくるが、我々が生きる自然システムは半開放系であり、人間活動のクローズドなサーキットだけで完結させようとしても無理なことだ。PFASやプルトニウムのような有害物質に関してはそういうクローズドなサーキットを作って管理しなければならなくなるわけだが、それでも完璧というわけにはいかない。必ずシステムの欠陥や予測不可能な事態が起こり、世界に「漏れ出して」いく。すでに「完璧な管理」という常套句が、いかにインチキで虚しいものであるか、我々はよくよく知っているではないか。

しかも我々の世界は「生きた世界」だ。そこには生き物たちがいて、つねに世界を揺り動かしている。実に面倒な世界だとも言える。例えば我々は病気を克服しようとして抗生物質などの抗菌薬を開発してきたが、人間がそれを過剰に使うことで耐性を獲得した「耐性菌」の発生や増殖が進む可能性は非常に高い。抗菌薬に耐性を持たない病原菌を減らすことはできるが、同時に耐性のない常在菌も減って、耐性菌が増殖しやすい環境が生まれてしまうのだ。こうした薬剤耐性菌の蔓延が引き起こすだろう事態は「サイレントパンデミック」と呼ばれ、それを警告する医療関係者も多い。はっきり言えば、イタチごっこなのだ。

生きた世界の中にあっては、「強力」とか「即効性」とか「絶対」とか「完璧」いう考え自体が、致命的な結果を持つように思えてならない。要するに、問題は我々の「夢の見方」の方にあるのだろう。

 

物理学者、フリーマン・ダイソンの自伝『宇宙をかき乱すべきか』[3]は、私に大きな影響を与え続けてきた書物だが、その中にこんなエピソードがあった。

ミュンスターで知り合った少女から手紙が届くのだが、その手紙は次のようなイェーツの詩で終わっていたという。

 

私はあなたの足もとに、衣装を広げたい

だが私は貧しくて、夢だけしかもっていません

私はあなたの足もとに夢を広げました

そっと踏んでくださいね、私の夢を踏むのですから。

 

その時フリーマン・ダイソンは、そっと踏もうと自分の心に約束したという。

誰でも他者の夢は踏んでしまう。ならば、できる限りそっと踏まねばならないと私は思う。

(2024/9/4) 


[1]毎日新聞2024年8月30日

[2]毎日新聞2024年4月11日

[3]『宇宙をかき乱すべきかーダイソン自伝―』フリーマン・ダイソン著、鎮目恭夫訳、1982、ダイヤモンド社