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芹沢さま
お返事ありがとうございます。
高校生の頃の話も初めて聞きました。多体問題やトポロジーなど、知らないことばかりでしたが、面白い世界ですね。
その頃に得た数学的な知見がart and environmentの下地として広がっていたんですね。フラーの翻訳を読んだ時も同じことを思いましたが、芹沢さんのLogicとCreativeのバランスは、こういった遍歴で出来上がったものなんだなと改めて腑に落ちました。
絶対的に調和していて何も起こらない世界だと、多くの人が社会をそういう像で捉えている中で、最後にはどうなるかわからないという偶有性を示唆しているのがアーティストだとも言えますよね。
最近、目にしたニュースで興味深かったのは、京都市立芸術大学の小山田徹学長が京都駅周辺の開発について、商業アートは必ず飽きられる。長尺の思想で考えて百年の森をつくろう。という記事で、、(ちょうどこのことを書いていたら、芹沢さんも今回の対流圏通信に書かれていましたね)
「開発を進める時に便利だから、やれ文化だ、やれ芸術だ、と言う。」など、揺るぎなく自分の考えを語る言葉が数多くありました。
同時に小山田徹さんが今年、大学の「お知らせ」に公開した学長メッセージ「世界に起こりつつある紛争に対して」も目にしました。
このような事態に芸術は何ができるのか?直接止める力があるわけではないが、芸術には人と人の間に入り込み、関係を紡ぐ力がある。違いを尊重し、融合し、併存への後押しができる。芸術のプロパガンダ的搾取にはっきりとNOを突きつける。そういった熱を帯びたメッセージが書かれていました。開発や政治、アートウォッシングや様々なことに利用されがちですが、はっきりとそういったことに言及する熱さを感じるその文と、芸大の学長が「お知らせ」の欄にこういった内容を書けるのが、めちゃくちゃかっこいいなと素直に思いました。
芸術の力が抑止に作用すると信じる姿勢が、芹沢さんの手紙と強く重なりました。
「福島のあとに沈黙するのは野蛮だ。」
かつて坂本龍一さんが仰っていた言葉ですが、インタビューの中でこんな話もされていました。「戦争は外交の失敗という定義。攻めてきたらどうするんだと言う人がいるが、攻められないようにするのが外交の力であり、それを怠っておいて、攻めてくるかもしれないから、もっと軍備増強しようというのは本末転倒」と。その外交の力の中には芸術の役割もきっとあると思います。
大袈裟に言えば、アートに争いを抑止する力があると大真面目にそう思います。
人類の歴史を遡ってみると、人はいざこざを避けるために、様々な工夫を凝らしてきました。争わなかったのではなく、争いを別の形に変えてきたとも言えます。
最近調べていて面白いなと思ったのが、トロブリアンド諸島に今も残るクラ(Kula)という文化があって、男たちがカヌーで島々を行き来し、財宝である赤い貝の首飾り(ソウラヴァ)を時計回りに、白い貝の腕輪(ムワリ)を反時計回りに贈与交換します。この制度は物々交換とは違い、モノ自体に価値を付与するのではなく、それを預かることや、饗宴を共にすることに大きな意味があるようです。クラに属する島々を財宝が一周するのに2年から10年かけ、常に次の島にリレーされていくため決して自分たちのものにはなりません。もし相手を襲えば、貴重な交換ネットワークから排除され、「信頼できない者」という評価が広まり、以後の交易や協力を断たれる。抑止力となるのは、クラが「争えば失うもの」をはっきりと作り出しているからです。そこには経済的な側面はまったくなく、現代的な観点から見れば、一見すると意味のないやり取りに映る制度でもあります。
アート作品の巡回や芸術祭も、ある意味では経済の外にあって、どこか饗宴のような性質を帯びているところも、少し近いものを感じました。
もちろん、現代の戦争はもっと複雑化していて様々な利権の元に動いているので、同じようにはいきませんが、永田町ではきっと議論されないようなことを門外漢の人間たちで考えていく。そんな行動には意味がなく、微々たるもので効力は発揮しないと思われるかもしれません。でも、芸術家のような、政治の中心ではなく、枠の縁にいるような存在の人間が発することに、未だ試せていない外交の力が眠っているのかもしれないと思います。
この世界が最終的には何が起こるかわからない偶有的なものだと思うと、今日私はりんごの木を植えるといった言葉も、これまでとはまた違って聞こえるようになってきました。
小山田さんが、芸術大学は遠い未来を見据えた価値観の形成を託す場所ということも書かれていました。
前回の手紙の最後に書かれた芹沢さんの言葉、何度も読み返しました。
こうやって書簡を交わすことで、自分なりに芹沢さんの思想を少しずつ自分の中に宿していけるといいなと思っています。
今年も色々なことがありました。
一年の節目というと、大きなものに感じますが、大晦日と元旦も誰かが定めた一日違いの昨日と今日ですよね。暦ほどガラッと変わることはないかもしれませんが、一縷の望みを込めて、今日この日を大事に生きていこうと思います。
2025年12月24日 川口弘貴
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川口さん
明けましておめでとうございます。
少しぼんやりと年末を過ごしていたら、あっという間に年が改まってしまいました。お返事、すぐに返せずごめんなさい。確かに元旦になったからといって世界ががらっと変わるわけもなく、ひと続きの日々に変わりありませんね。歳をとったせいでしょう、最近はますますそう思うようになってきました。それでも若い頃は、今年こそは!、などと一応は意気込んだものだけれど、今はこの連続する毎日毎日、こうして日々が過ぎ去っていくこと自体に目が向いています。2016年1月1日、東京は穏やかに晴れていて、妻と二人で近くの「牟礼の里」というところまで歩いて行って、富士山を見てきました。雲でほとんど見えなかったけど、たしかに富士の姿はありました、そして牟礼神明社に初詣して帰ってきた。
まあこんな、特に変わったこともない時間を過ごしてきたのですが、なぜかちょっとした旅でもしてきたような気分になっています。
小山田さんの記事、川口さんもお読みになったのですね。あれは良かったね。京都市立芸大の学長メッセージも、まったくそのとおりと思って読みました。
少し話が戻ってしまうけど、この前の書簡で “Brain rot” の話をしてくれたじゃないですか。年末、そのことをずっと考えていた。ソングラインやドリームタイムのことをAIに聞いたら、混乱して「理解が困難」と応えてきたというけれど、その話もなるほどなあと思った。確かにデジタルデータ化されていなければ、AIの世界にそれはない、存在しないわけだ。判断のしようもないだろう。
類推は、プログラムしてやればできるようになるだろう。しかしそもそも一次データがデジタル化されていなければ、それすら怪しくなるのじゃないか?あらゆる論文がデジタルデータ化されているとは思えないし、活字時代の書籍や論文、さらにはそれ以前の文献など、デジタルデータ化されていない叡智は山のようにある。そしてそれらは、AIの世界には存在しないものということになるのでしょう。
AIは間違いなく、我々の社会でますます重要な役割を果たすようになっていくと思います。AIに意見を求めることもどんどん増えていくだろうし、より重要な意思決定に加わることも出てくるはずだ。しかしわれわれもそうだけれど、判断というものは、自分が理解している世界のなかで下されるわけだよね。世界が狭ければ、それなりの狭い判断しかしようもない。“Brain rot”、確かにジャンクばかり食っていれば、頭もジャンクになっていく。
そう考えると、AIの「教育」が本当に重要だね。AIに教えてもらうばかりじゃなくて、AIに何を教えていくのかが重要になる。
今もわれわれのほとんどが知らないまま、どこかの大陸の片隅に住む少数民族が消え、彼らが守り続けてきた歌や物語が霧散していっているかもしれない。この地球環境が生み育ててきた多様な生物が、われわれも知らぬうちに消えていっているかもしれない。
ぼくは世界を知り尽くすなんてことに欲望を感じない人間だし、なんでもデジタルデータ化しようとする動きに嫌悪感さえ感じているタイプの人間なんだが、AIの役割がここまで大きくなってくると、そんなに悠長なことは言ってられないのかもしれないと思い始めた。AIの世界を広げるために、AIにこのわれわれが生きる世界のことをもっともっと教えていかなければならない。AIの教育なんて、ほとんどは国家や大企業が進めているのだろうが、そこが問題だ。どうしてもカネを産みそうな分野が優先されて、消えゆく少数民族の叡智なんか、優先度は限りなく低いだろう。すべてのデータは「自動的」に集まってくるわけではない。自動的に集まってくるものは問題ない。自動的にデジタルデータ化されて集まってはこない世界の部分が問題なんだと思う。
川口くんはいつもそのことを話していたよね?以前、DAO(分散型自立組織)を使って、未だ採集されていない世界中の方言や歌や物語を、有志で集めていこうとするプロジェクトを構想されていたと思うのだが、あれ、どうなった?
長田須磨さんの膨大なカセットテープに残された貴重なお話も、このままではAIは知ることもないのだろう。そして知らなければ、それは彼らの世界には存在しない。長田さんのお話も、シマユムタ(奄美方言)も、そこで語られた奄美の民話も、AIの世界知識に組み込まれることもなく、失われていく。勿体ないというより、それはAIのためにならない。AIはより良い判断をするために、世界をもっともっと知りたいはずだ。
初夢というわけでもないけれど、もしもそんなプロジェクトを川口さんが立ち上げるなら、なんでも協力していきたいと思っている。大袈裟に言えば、これもわれわれ草の根の「外交」だろう。
それでは今年もどうぞよろしくね!
2026年1月5日 芹沢高志