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芹沢さま
 
お返事遅くなってしまいました。

特集上映やアフタートーク、ぜひ拝見したかったです。内地を離れて、いちばん懐かしく思い出すのは映画館の光景です。なかなか都心まで行かなくなりましたが、現場に足を運ぶことの価値を年々感じています。吉祥寺にいた頃、バウスシアターの爆音映画祭でアキ・カウリスマキ監督の無声映画に、テニスコーツと梅田哲也さんが音をのせた上映を観て釘付けになりました。

ジョン・ケージとの思わぬエピソードを聞けて嬉しいです。彼もフラーに影響を受け、共にブラック・マウンテン・カレッジで教鞭を執った一人でしたよね。どんな教育機関だったのか、今あらためて興味が湧いています。芹沢さんも以前の「対流圏通信」で、男女の性別に2の3乗、8通りのパターンがあるという話を書かれていましたが、ジョン・ケージもキノコの性の多様性に興味を持っていたそうですね。シハイタケ属のキノコは1万7,550もの性別を持っているらしく、人間の雌雄の概念は本来、複雑な状態を単純化したものではないかと考えていたようです。
0か1かの二極で物事を捉えるAIと、自然物の中に存在する事柄と事柄の間に数多漂うものとの乖離が起きているように思います。以前AIと対話をしている時、アボリジニーのドリームタイムやソングラインの概念に混乱して、「理解が困難」と返ってきたことがありました。AIの利用は避けて通れませんし、毎日のように恩恵を受けています。おそらく間接的に関わらない日はないでしょう。芹沢さんの指摘の通り、言語野だけを拡張したような、極めて左脳的な社会へと加速していく時、片側に傾き転ばぬよう重心を保つには、どう乗りこなしていけばいいのでしょうか。
 
ソローの言葉の派生で “Brain rot” という言葉がありますが、食物と人間の関係のように、ジャンクなコンテンツを摂取してアウトプットするものの質が下がるのはコンピューターであっても同じで、AIもまた人間と同様に “Brain rot” を起こすそうです。AIの方も大変そうですね。
自分に置き換えて考えてみると、本や映画やアート作品と対峙する時など、淡いもの、曖昧なものに触れるとき、物語の解釈に高いコンテクストを用いないと感じきれない何かがそこにはあるように思います。芹沢さんがおっしゃる「多様な解釈が可能な記述方法」というものが、まさしく今求められていると自分も強く感じます。
 
そして最も純粋な情報の塊というのは、自然そのもののようにも思えます。自然の情報には答えがありません。解答を出してくれるような世界ではなく、ただ在る。それに自分が応答する。生態系や動植物の進化の Try & Error を見ていると、答えがある世界の方がむしろマイノリティなのだと思えてきます。常に強く生きようとする力と理がそこにあるだけの世界。分からないことで満たされているままの世界。そして、その純粋な情報の渦の中に身をおくことで享受できる情報量は無限とも言えるかもしれません。
 
アナログ情報からデジタル情報を引いてなお残るものにこそ価値を感じます。
土づくりをする時、野菜に必要な成分を抽出した化学物質をいくら合成しても、森の腐葉土と同じにはなりません。取り出すまでもないと省略された、0.0001%しか含まれていない物質にも極めて重要な役割があります。
植物は異性体を持つことによって、科学的に合成された製薬とは違い、どれだけ鍵の形を攻略する進化を遂げられようとも、まるでワンタイムパスワードが無限にあるかのように、異物が突破できない優れた免疫システムを持つ。一部の成分だけを抽出して高濃度化した製薬は、AI同様、使いようによっては便利で暮らしを助けてくれるツールの一つですが、副反応のようなものはやはりあります。
 
AIデータセンターに必要な電力が、だいたい原発一基分と知って驚きました。今後、莫大な電力が必要となる。そして日本は平地国土面積当たりのメガソーラーの占有率が、段違いの世界一位だと知ってまた驚きました。純粋情報の集まりである自然を切り取り、その分を膨大な知の計算式に変換してより多くの物事を早く処理できる。
一方で、早く解ったり利便性が上がるということはありませんが、自然や都市の空間に設置されたアート作品は、対照的な存在に思えます。全く異なるベクトルですが、これはこれで文明の発展というか、文化を醸しているように見えるのです。たぶん。
自然という人間のコントロールから離れた「わからない」世界に、これまた「わかる」ことが容易でないアート作品が配置されるという乗算に、底知れぬエネルギーを感じています。
 
ジョン・ケージの「オプティミストはバカだと思われる」という話がありましたが、確かに「成るように成る」と言うと投げやりだったり無責任で考えていないように思われます。想像ですが、『易の音楽』などのチャンス・オペレーション的な考えで世界を捉えると、全ては「成るようにしか成らない」という極めて真剣な楽観だったのかもしれないですね。自分もそうありたいです。
 
一部の能力を肥大化させた社会になっていくことで、その間にある微分音や倍音のようなものがカットされ単一化していく。合理性の塊でもあるAIを模倣する社会。そんな中で、人の持つ非合理性の方にやっぱり魅力を感じてしまいます。
ヒトが森を出て旅に出た時、合理性を超越した好奇心によって、住むのに適さない場所に定住したり、リスクを犯して海を渡ったり、その原動力には合理性を遥かに超越し、突破する爆発力があります。現代においてもなお、視力10.0で獲物を追う動体視力や、全く自分たちには聞こえない動物の鳴き声を聞き分ける聴力を持つ民族もいる。電力や自動車などの外部装置に全く頼らなければ、ここまで本体の性能を高めることができる。人間が頼る外付けの身体補強装置を外していった時、生身の身体に最後に残るものは何なのか。
 
多くの物を持たない少数民族が、華やかな装飾や鮮やかな衣装を身に纏う姿を見ていると、自己表現としてのアートは「生産性のないもの」とは括れない何かを持っていると思えてなりません。非生産的だと括られるアートが、物を持たぬ時代も戦時下でも、人々の心には必要不可欠なインフラのように需要があったことを見ると、生産性を追うだけでは人は生きられないことの証明のようにも感じます。
 
ヒトが果物の場所を共有するときも、互いの村に伝わる話をするときも、話を記憶することが唯一の情報を貯蔵する方法だった。そんな記憶することの中だけに文化があった時代。人間が文字を持つ以前の世界では「語り」は人が触れられるメディアのすべてであり、一つ一つの情報の価値が今よりも高かったのだと思います。外部装置を用いないメディアであるからこそ、人の言葉を聞く時、一文字も聞き逃すことなく記憶に留めようと懸命に傾聴したのかもしれません。
一度聞いた話をバックアップする手段がない世界では、忘れないように必死に覚えてメモリーする機能が、脳のどこかに残っているのかもしれません。口伝という人類最古のメディアに対して「これは重要な情報」と感知し、声に耳を傾けるという本能のような何かが備わっているのではないか。そう思えるほど、「語り」には心に留まるものがあります。
 
以前、長田須磨さんという奄美の民俗学者の方が残した膨大なカセットテープを聴かせてもらう機会がありました。奄美に伝わる民話や子どもの頃の話をシマユムタ(奄美方言)で語っていて、ガサゴソとさまざまな生活音も混じるその語りに耳を傾けると、目の前でたった今語ってくれているかのような錯覚がありました。その場にいた年配の方たちはおおかた言葉が通じているようで、読み聞かせを聞く子供たちのように目を輝かせ、じっと静かに聞き入っていました。
 
いつかぜひ芹沢さんにも聞いてみてもらいたいです。
では、またお返事を楽しみにしています。
 
2025年11月11日 川口弘貴
 
 
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川口さま
 
お返事ありがとう。
AIにドリームタイムやソングラインのことを聞いた話は愉快だね。過去にデジタルデータ化されていなければ彼らも判断に困るだろうし、そんなデータが集まったところで、その場所と身体がなければ本当の理解はできない。文字通り、「頭で理解しただけ」というやつだ。まあそれはAIでなくても、我々でも同じなわけだけど。
データセンターの必要電力がおよそ原発一基分というのにも驚いた。そんな話を聞くと、ますます、うーんと思ってしまう。いったい我々は何をしているんだろう。
 
AIはすごいもんだが、そもそも最初に「たったひとつの正解がある」という思い込みを捨てるところから始めた方がいいとぼくは思っている。難しい話じゃない。「偶有性」という世界の有り様をきちんと引き受けるということだ。「偶有性」という言葉は難しそうだけど、なんてことはない、完全に規則的ではないけど、まったくのランダムでもないという有り様。ある程度は予想がつくけど、最終的には何が起こるかわからない状況と言ってもいい。生きてる実感として、ぼくは世界というやつは偶有的なんだと確信している。
 
若い頃、数学を専攻していて、そこで多体問題というやつに興味を持った。高校生の頃は天体の運行なんてニュートン物理学で解が一意的に導き出せるものだと思い込んでいたのだが、それは、例えば月と地球みたいに、質点がふたつの場合だけのことで、天体が3つになった途端に、この3つが正三角形に並んでいるとか、特殊な条件になってないと解くことができない。なんだ、そんな程度しかわからないのかと驚いてしまった。ましてやたくさん天体があるなら、どうしたらいいのだろう? ということでポアンカレという数学者が、きちんと数値的に予測ができなくても、大体の大域的な性格がわかればいいんじゃないかと考えて、トポロジーという数学を生み出していった。
自然は規則的で美しいなんて、我々がそう思いたいだけだという気もしないでもない。人間が決めた約束事の範囲内でやりくりしていれば、それは美しくも完結していくだろうが、自然を相手にしているとそんなにうまくはいかなくなる。そういう場合は非常にたくさんの事例を集めてきて、その多くがそうなるということが分かれば科学的に正しいと判断することにする。こうして統計とか確率という考えの定式化が進んでいったわけだ。何回も何回も観測して、結果が同じになるから、それが正解、この宇宙が採用している原則なんだと認定していくことになる。このやり方が間違っているなんて言いたいわけではない。でもこの世界が水も漏らさぬ正解だけでできていると考えるのは退屈で仕方がない。結果というのは成ってから初めてわかること、ポストホックなものだと思う。ある人は「天国的な退屈さ」といっていたけど、こういう絶対的に調和していて、結局何も起こらない世界という考えに、ぼくはどうしてもついていけなかった。というか、はっきり言えば、これは自分の好みの問題かもしれない。そういうことを踏まえての「成るようにしか成らない」ということなんだ。
 
AIは超頭でっかち君で、そんな奴がいてもいいし、大いに意見を聞いたらいいけど、ぼくは最後には自分の直感、直観の方を信じる。まあ、これは自分の好みということになるかもしれないね。
極めて左脳的な社会へと加速していく時、片側に傾き転ばぬよう重心を保つには、どう乗りこなしていけばいいのかという問いを投げてくれたが、ぼく自身に関して言えば、そんなふうに考えているから、あまり心配はしないでハッピーにやっていられる。でも社会そのものがそういう方向にぶれてきたら、個人としてはなんとも生きにくい世の中になったなあと悪態つくしかないだろうな。
ピカソはデジタル方式のコンピュータについて聞かれて、「それは役に立たない。答えを出すだけだから」と言ったそうだ。あえて言えば、重心を保つために必要な営みがアートなんだとぼくは考えている。
 
今の社会、悪くなる一方だ。世界中でそうだし、ここ日本もそうだ。これは政治的指導者だけの問題ではなくて、それを良しとしているわれわれ自身の問題としか言いようがない。誰かが悪いと他人事として、評論家的に語ることもやりたくない。感性と想像力の減退こそ、ぼくは致命的な問題だと思っている。だから余計にアートを応援もするのだけど、そのアート自体も経済的な現実のなかで、ずいぶん怪しいものも生まれてきつつあるように思う。この歳になって使命感を持つとは思ってもいなかったけど、感性と想像力を刺激する営みを、この生が終わるまで支援していこうと今は思っている。
 
あっ、そうだ、その長田須磨さんのカセットテープ、是非是非聞かせてください!
 
じゃあ、またね!
 
2025年11月21日 芹沢高志