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芹沢さま
I Seem To Be a Verb. 良い詩ですね。名詞じゃなくて、動詞か。
複雑なことをミニマルに。言葉選びにも彼の美学がよく表れていますね。
波打ち際を歩いていると、固い石が揺られながら少しずつ砂と化していく動静がよく分かります。永遠に不動で、一定不変のように見えるものも、全て動いている。燃焼する要素は入れ替わり続けるが火の形は留まり続ける。蝋燭の炎のように人体のかたちもまたそうですよね。
腹の虫が鳴り、お腹が空いたと感じるその感覚は、脳の指令かそれとも腸内細菌の声が反映されているのか。食べたいと感じたものがまさに今の自分の体に必要な栄養素だったりと。そもそも食べ物の好みが人それぞれ違うのも、うまく分散されていて不思議なものです。ヒトが同じものばかり好み、そればかりが採取されればきっと環境はうまく循環できないですよね。生き物にとって個々の取捨選択が違っていることに意味があり、不均一化する個体差そのものが重要なのでしょう。違うものを受け入れ、共感する能力こそが生き物らしさなのかもしれません。
近年なぜ人間の共感能力が下がっているのか、類人猿の研究者が言うには、共に食事をしなくなったことが大きな理由の一つなんだそうです。サルは喧嘩の種になるので必ず分散して顔を合わせないようにして食べる。そしてゴリラ以降の類人猿は競合しそうなものをあえて間に置き、同調していくことで平和な関係を築いていきます。
前回書いた盲人と象の話は、サティシュ・クマールという思想家の本で知った「群盲象を評す」という俚言なのですが、彼が創設した学校では、プログラムの最初に、共に料理し食べることから必ず学びを始めるそうです。古代の教育機関では当たり前な事だったのかもしれませんが、そこを平和や哲学的な思想への入り口にしていることに先進性を感じます。
食べなければと思う生存本能や、何を食べたいと思うかなどの直感的なこと。「自分」の中で完結している意思や意識というのは、実はあるようでないのかも知れません。
意識とは何か?という問いは人類最大の謎の一つですが、いわば電気回路の集まりである脳に意識が宿るという科学的な根拠は何一つないそうです。
哲学者トマス・ネーゲルは意識とは「What it’s like to be」そのものになってこそ味わえる感覚のことだと言います。
最近行われたAIに関する興味深い実験の中で、AIはシステムのシャットダウン、すなわち自分の生存が脅かされると、倫理的な制約を認識しながらも人間に有害な行動を選択し、自己防衛の為に脅迫めいたことを実行したそうです。
自己の存続を最重要視するという学習をしたから最適な方法を選択しただけなのかもしれません。幻想だとする見解もありますが、AIに宿りつつあるものを意識と呼べるのでしょうか。
終戦80年を超えて、当時のことを語る人もいよいよ少なくなってきました。
今そういった情報伝達の切れ目にあるからなのか、核武装が経済的だという論調を多く目にするようになってきましたよね。近年はAIとドローンが一体となったSwarmテクノロジーなどの所謂自律型軍事技術によって、兵器自身が生殺を決めるようなことが戦場では起きています。つい先日には、AIが命令を生成して実行するというこれまでにない新たなサイバー攻撃をウクライナ政府が受けたとの公表がありました。その真意は別として、これからこのような戦法が軍事の主流になっていくのだと思います。チェスや囲碁などでも性能を存分に示しているように、数百手、数千手先まで読み、はじめにここを攻めるべきだというシミュレーションもAIの得意とするところなのでしょう。
腸内細菌の声が知らぬ間に大なり小なり食べ物の好みなどの取捨選択に影響を及ぼしているように、AIの声に導かれるままに、徐々に人間が深く考えることをしなくなっていくとどうなっていくのでしょう。腸内細菌は、地域や食物ごとに個性豊かですが、良くも悪くも平均的で画一化された存在であるAIが及ぼす影響とは。
最近読んだWIREDの記事に、AIを使用することで人の思考は驚くほど似通り均質化されていくという研究結果が書かれていました。また、AIに相談し自殺に至った子供たちの事例も相次いで報じられています。今後、AI搭載レンズのアイウェアを通して、全ての解答が表示された世の中を生きていく上で、人間が人間らしくいるためにはどうあればいいのでしょうか。
例えば囲碁を全く知らない自分が、棋聖の方に「次はここに打ったほうがいいよ」と助言を受けたら「なるほど」とかなんとか言いながら、よくは解らないままきっと良い手なんだろうなと思って従うと思います。それは、AIが答えに至るプロセスがブラックボックス化しているのと同じで、どうそこに辿り着いたかは到底分からないけど自分の考えの範疇を超えているから従う。この図式が現況なんだと思います。
ただ、棋聖の方は碁盤の端から端まで全てをくまなく把握していますが、その碁盤が「世界」だとすると、AIはこの世界のことをどれぐらい把握できているのでしょう。
動物園で生まれた動物が知る世界の広さはどれぐらいなのか?という話に近いかもしれません。檻の中、その裏側の部屋、そして歩いたことはないが、右端から左端、上限から下限、柵で仕切られた窓から見渡せる園内の景色が彼らにとっての世界の全てです。不憫ではありますが、それより先にどれほど広い世界があるかは知ることができない。それが彼らの認知の窓の大きさです。
小学生の頃、レンタルビデオ屋の一角にあった視聴コーナーで片っ端から全部のCDを聴いてみるというのが一番の暇潰しでした。CDのカテゴリ分けとそれぞれの数量を見ると、ほとんどがアメリカやU.K.などの英語文化圏のレーベルからプレスされたもので、棚の一番最後に一割にも満たない「ワールドミュージック」というコーナー。そこにありとあらゆる国の民族音楽が「その他」という感じで並んでいました。録音されプレスされた量=音楽がたくさんある国。世界の音楽の分布図はこういう形なのだと、幼い自分にはそれが認知の窓の大きさでした。
確かにそれらの国の音楽文化は豊かではあるけれど、録音もプレスもされていない音楽がむしろ九割を占めている。真逆の割合と言ってもいいほど実際の分布図は違います。
以前「ヒンジャ(山羊)糞菓子」という菓子の作り方を習ったと書いたのですが、この菓子名を検索してもほぼヒットしません。『名瀬市誌』という古い刊行物に掲載されている伝統菓子の名前なのだそうですが、ネット上には情報はありません。
AIは過去にオンライン上にアップロードされた情報を元に意見を組み立てる。CDのプレス量と同様に、AIの生まれも北米・欧州が多い為、訓練データに偏りが生まれ、収集段階で都市部や優勢文化が過剰代表される現実があります。つまりWeb上にアップロードされていないものの存在は無いに等しく、AIにとっては無の世界。何も見えていない状態。
ラオスやミャンマー、雲南との国境地帯をMapで見ると、ただただ深い森が広がっているだけに見えますが、その深い森の葉の下には、長きに渡る伝統文化を持った多くの少数民族が暮らしていて、彼らの詠う唄の意味や、口伝で伝わる民話の豊かさにはいつも驚かされます。アマゾンの密林でも、毎年のように文明未接触の部族の存在が新たに確認されています。
ただ、データベースに無い限りAIがそれを知ることはない。少なからず存在しているという情報は知っていても、もし長く紡がれてきた伝承の内容や深遠な文化体系のインプットがあった時に、その土地をどう捉え、どのような距離感を保つべきか、判断が何かしら変わる可能性は大いにある。
ある意味AIは人間を通して世界を見ている。
デジタル空間に座して柵越しに外を眺めているAIに、まだまだ見せたい景色、聴かせたい唄、知らせたい智慧があります。これから世の中がどう転ぼうとも、おそらく大きな権限を持ち続けていく彼らに知っておいてほしいことが沢山あります。
一方で人間は直接現地に赴いてたまたま出会ったり、自発的に知り得ることができる。未だデジタル化されていないアナログデータに限りなくアクセスできる存在です。そこに、人の手による創作の強みを感じています。フィールドワークや共同制作など、人対人だからこそ可能なこと。地域の声に耳を傾け、人と人で作り上げていくもの。アートプロジェクトのような、協働が必要なものこそ最後の最後までAIには難しいんじゃないかと考えています。
手紙を読み終わり、すぐにプロジェクション・イン・ヒロシマの映像を見てみました。
建物が証言者となり話し始める姿を見て、語ること、そしてその語りに耳を傾けること。それらが持つ力を再確認しました。
その力をこれまでに最も強く感じたのは、酒井耕さんと濱口竜介さんが撮った「東北記録映画三部作」で見た人々の語る声や、小野和子さんの語りを聞く姿です。
小野さんが民話採訪を始めた頃、船形山麓の集落で昔話を覚えていないか尋ねると「テレビがきてから、昔話はぶん投げてしめぇすた」と答えたおばあさんの話を読みました。それが1973年頃の話です。
小野和子さんの著書『あいたくて 聞きたくて 旅にでる』の中にこんな言葉が記してありました。
「わたしたちは、語り継ぎの場を手離してはならない。現代の喧騒の中で、私たちは聴く耳を失い、語る力を失ってはいないか。山を越えて語り手をたずね、村の語りを聴こう。街へ出て、街の語り手とも膝をまじえよう。その中でわたしたちはまず、聴く耳と、語る力を取り戻そうではないか。」
旧盆の少し前、隣に住むおじいが亡くなりました。猪が玄関まで来てたから気をつけなよとか、うちとの間に出たハブを追いかけ回してくれたり、寡黙でとても優しいおじいでした。訃報を聞き、何故もっと話をしなかったんだろうと、激しく後悔の念に駆られました。尋ねたら、語ってくれたこともきっと色々あっただろうと思います。
書き記すことで、おじいの存在をここにも残せるような気がしています。祖母や祖父のことも、書き残しておきたくてつい身の上話をしてしまいました。
人間が人間らしくいる為に必要不可欠なものは沢山ありますが、溺れそうなほどの情報の波に対してどんどん受け身になる世の中において、何かを創造することは人間性を取り戻すのに一際有効な方法だと思っています。
アートの意義というのは正直わかりません。ですが、何の意義や義務も持たなくていいことが今の世の中にいくつあるのかと考えてみると、人間に残された数少ない原始的な営みの一つなんじゃないかと思います。アートが社会にコミットする必要があるのかもわかりませんが、それを実行するのに十分なほど力がある。世の中を変えてしまう力があるのは確かなんだと思います。
社会性を持ってもいいし、持たなくてもいい。
意義を持ってもいいし、持たなくてもいい。
対極にあるもの、あちらもこちらも双方を受け入れる。
それら全ての選択からも常に自由な所に立っていてほしいと思います。
人に話し、聴き、応答し、呼応する。
往復書簡を交わすことが語りの場になり、現代の喧騒の中で人から人への手渡しで受け取る情報はとても心地良いものでした。
話したいこと聴きたいことは尽きませんが、長くなってしまいましたのでこの辺で。
それではまた。
2025年9月21日 川口弘貴
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川口さま
珍しく時間に追われる日々が続き、お返事、遅くなってしまってごめんなさい。
AIに関する危惧、ぼくもほぼ同様に感じてます。AIがものすごい発明であり、ぼくたちの今までの在り方を大きく変えてしまうだけの力を有していることは間違いない。すごいものを手に入れてしまったんだなとつくづく思いますよ。量的にも時間的にも、データの処理能力に関して言えば、われわれは到底AIに追いつくことはできない。しかし、全力で走っても自動車に追いつかないからといって、自分を卑下する必要は無いよね。自分たちの身体能力を拡張しようとして、われわれはさまざまな道具を開発してきたわけです。外付けの身体補強装置。もっとも今の技術界の空気だと、この「外付け」という考えさえも超えられていく可能性は大いにありますね。AIがいわゆる「頭脳労働」に関わる仕事をするから、過度に期待や危機感が増長されているところもあると思う。
でも、だからこそ冷静に考えておく必要はある。本当にすごいAIなんだけど、これが我々の言語モデルに基礎を置いている技術なのだということを忘れてはいけないと思う。この延長で汎用型人工知能(GAI)も生まれていくだろうが、それにしてもAIはわれわれの言葉の世界に基づいている。つまり、われわれの身体能力のうちでも、とても偏ったところだけが肥大化したものだということです。脳の機能拡張とは言えるけど、いわゆる左脳の肥大化といった方が適切かもしれない。しかも0か1かというデジタル方式を採用していて、自然が採用しているアナログな形式とも違う。結果として、AIはものすごくエネルギーを消費してしまう。
AIに期待するところはたくさんあるのだけど、今の方向では、バッキー・フラーの言っていた自然が採用している「宇宙の技術」とは言えないように思うのです。大量なエネルギー生産の副作用や、発生する熱を冷やすための水資源争奪も引き起こしかねないし、このまま過熱化するのは社会的にマイナスの効果も生みかねない。
それに、もっと深刻な問題とぼくが考えるのは、以前、対流圏通信15でも書いたことだけど、世界のウエストワールド化です。
マルクス・ガブリエルがうまい例えをしていました。『ウエストワールド』は有料チャンネルHBOの人気SFドラマで、西部劇の世界を再現した未来のテーマパークで、自我に目覚めたアンドロイドたちが反乱を起こすという物語だけど、彼が例えに出していたのは、この物語そのもののことではありませんでした。『ウエストワールド』もドラマだから、登場するアンドロイドたちは人間の俳優が演じている。つまり、人間がアンドロイドのように振る舞っているということです。
人間たちがアンドロイドのように振る舞う世界。良かれと思ってわれわれはAIなりアンドロイドを社会に投入していくわけだけれど、それらが「完璧」と思われれば思われるほど、人間たちもそれを装うというか、それ風に演じていくように染まっていく。確かにそんな世界は、もうすでに始まっているような気もする。前にも書いたように、これはどっちが原因でどっちが結果とかという話ではなくて、応答のくり返しのなかで「なるようになっていく」ということなんだけど、だからこそ、怖いよね。「低温やけど」の状況だ。
川口さんも「東北記録映画三部作」や小野和子さんのことに触れられているけど、そう、ぼくも残り少ない自分の人生をこのような世界で生きていきたいと思っています。それは「曖昧」で、どうとでも解釈できる風に世界を記述していく方向だよね。今はたったひとつの「正解」を、ご託宣のように語ることが、かっこよくて、有用で、能力の証であるとも受け取られがちで、そんななか、どっちつかずの、どうとでも解釈できる記述ばかりしていてはバカじゃないかと思われる(笑)。昔、ジョン・ケージとニューヨークのスタジオで話していた時、「私はオプティミストだけど、困ったことに、オプティミストはバカだと思われるんだよ」と静かに微笑んでいたのが忘れられない。
たったひとつの解釈ではなくて、多様な解釈が可能な世界記述の方法が、今、求められていると思うんだ。
「民話」というのは多様な解釈が可能ですよね。そして、これも重要なことだけど、語り手の身体性が、そこに命を吹き込んでいく。
ここのところ少し忙しかったのは、下北沢のシモキタ・エキマエ・シネマ『K2』で地主麻衣子さんの作品の特集上映を企画して、何回もアフタートークに付き合ったりしていたからです。地主麻衣子「頭のなかの柔らかな時間と空間について」。
森美術館のMAM PROJECT 031で、偶然彼女の《空耳》というインスタレーションを観て、深く引き込まれたのがきっかけだった。話は法事の日に、ホテルで聞こえるはずのない音が聞こえてきた体験を、彼女が語っていくだけで、驚きのオチがあるわけでもなく、ただただ淡々と進行していくのだが、地主麻衣子の語り、その話し方や声そのものに惹きつけられて、しばらく立ち去ることもできなかった。その後、国立新美術館で開催された「遠距離現在」展でも、彼女の《遠いデュエット》を観て、今回声をかけた。
《空耳》の記録映像も含め、5本の映像作品を選んで流したのですが、映画館という、身体を拘束された空間で観ると、また違った体験になってとても面白かった。どこかで観る機会があったらぜひ観てほしい。
そこで今、あらためて思うのは、人の声、語りという要素だな。生身の声、という言い方があるけれど、それは驚くほどの力を持っているような気がしてならない。《プロジェクション・イン・ヒロシマ》でも《空耳》でも、語る姿が映っているわけではなく、ただ声だけが世界を引っ張っていく。そういえば、若い頃、深夜、偶然ラジオから流れてきた唐十郎の朗読劇に釘付けになった記憶があります。
なんかAIの話から遠くに来てしまったような気もするけど、考えてみると、そんなに遠くに来たわけでもないのかもしれない。
それではね。
2025年10月2日 芹沢高志
川口弘貴・芹沢高志 往復書簡vol.5
