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芹沢さま
遅くなりましたが誕生日おめでとうございます。
今年も厳しい暑さが続いていますね。体調崩さぬようご自愛ください。
この10年で10回程でしょうか。お会いした回数は多くないですが、もし毎日会っていても話していたか分からないようなことをやりとりできている気がして嬉しく思っています。
レ・リジオ Re-ligioと呼ぶんですね。また好きな言葉が増えました。
自分がこれまで興味を持ってきたことも、中心には常に「根源を想起する」という欲求があったのかもしれません。
「始原と結びついていて遡っていく特性」と読んで、自然農の師匠に聞いた種の話が頭に浮かびました。25歳の時、軽バン暮らしの長旅を終え、衣・食・住・エネルギーの自給を実践しようと熊本の山村で田畑を始めました。
秋になると、普通の稲穂の中に一際背が高く赤い稲穂がいくつか出てきているのが目につき、何か違う品種が混入したのか受粉してかけ合わさったのか、気になって師匠に尋ねると「先祖返りだろね。毎年あんな風に三分の一は古代米に近くなる。三分の一はそのまま、残りの三分の一は、前の年に受けた病気の抗体を持つ。なんかよぉわからんとたい。」と話してくれました。
三分の一は太古の種に還り、三分の一はそのまま、残り三分の一は未来へ進化する。
ものすごい摂理だなと思いました。種はそうして三つ巴の均衡を保っている。
進みすぎるものとそれを戻すもの、そして中道をいくもの。
もしくは、進めようとするものと進むことを拒むもの、そして、ただ傍観するもの。
参院選が終わり、同じようなことを考えていました。
人間の選択や思考も進化の方向に偏りが生まれないよう、そんな風に均衡をとっているのかもしれません。
ジャイナ教の古い民話に「六人の盲人と象」という話があります。
6人の目が見えない男たちが、見たことも聞いたこともなかった象に初めて会うことになった。
最初の男は象の脇腹に触り、2番目は鼻に触った。3番目は牙に、4番目は足に触れ、5番目は耳、6番目はしっぽに触れた。それから6人は話し始めた。
象は壁のようだ。いや、蛇のようなものだ。槍のようなものだ。木のようなものだ。扇のようなものだ。ロープみたいなものだ。と言い争いが続いた。
そこへ象の主が来て、あなた方は皆正しい。象はあなた方がいう特徴を全て備えていると説いた。
信念が複数あることを受け入れると、信念から自由であることができる。
政治団体や新興宗教、なんでこんな話を信じてしまうんだろうと思えることも、どの発言を聞いたか、どの映像を見たのか。触れた側面次第なのかもしれません。応援することや信じるその感情自体は尊いけれど、これまで各国の政治でも起きてきたように、衛星政党の手法等々、数々の謀は政治の常です。自分みたいな素人には難しいことばかりですが、とにかく何事も盲信しないことを大事にしていきたいです。
昔「拾った命」と言ってくれた祖母ですが、出身は瀬戸内海の小さな島で、戦時下真っ只中、当時13歳の祖母は空襲警報が鳴ると、自宅には防空壕がなかったので畳の下に隠れていたといいます。ある日空襲の音が近づいて、近所の人たちは皆、島で一番大きな家の防空壕に逃げ込みました。祖母も入ろうとしたのですが、人がいっぱいで入ることができず、家に戻ると、その後すぐに皆が逃げ込んだ防空壕に爆弾が直撃してしまった。そうして祖母は生き延びたそうです。「拾った命」というのは祖母がつくづく感じてきた言葉なのだと思います。
底抜けに明るくハイカラな祖母と比べ、祖父はとても寡黙で、優しく聡明な人でした。宇宙学や考古学の新発見、違和感を感じた政治や戦争関連の記事を切り抜き、何十冊もファイリングして独自の探究を続けているような人でした。数年前、祖父の死後だいぶ経ってからですが、初めてそのファイルの存在を知りました。読み進めていくと、最後の一冊の背表紙に死の間際の日付で「弘貴君に託す。探究を続けて欲しい」とありました。遺言書のようなものはなかったので、それが自分にとっては遺言だと思っています。
祖父は厳格な無神論者でした。一方で叔父はインドやネパールに20年ほど長く住んでいた70’sヒッピーで、独学で仏教の論文を書いたりするほど深く物事を探究する人です。
最後の最後まで二人は理解し合えず、葬式に出ないという叔父を説得したほどでした。
それから何十年も経って、祖母が祖父の人生の話を聞かせてくれました。
16歳の時、家族に先立たれ身寄りがなくなった祖父は、親戚のお寺に引き取られることになりました。ところがそのお寺で散々酷い扱いをされ、両親から受け継いだ私財も全て奪われてしまった。立派な仏殿がある寺院の中で辛い年月を過ごした祖父は、「神も仏も居ない」と言っていたそうです。
祖父と叔父、二人が触れた側面や経てきた経験があまりにも違うので、同じものを見ていても、その認識は当たり前に違う。どちらも正しいんだと思います。ただ、あんなに食い違ってはいても、顔や背格好、そして探究する姿勢は瓜二つでした。
クロノの話、初めて聞きました。
ネコを飼っていたのでよく分かります。うちの猫は納豆のネバネバに目がなかったので、体の大部分が納豆菌で成っていたのかな。
改めて考えてみると、名付けることで認識が変わるというのも面白い現象だなと思いました。きっと亀井勝一朗さんの邸宅にいた頃は違う名前で呼ばれていて、同じ猫だけれど違う存在でもある。ある意味名付けることで、クロノが在ることになる。
もし人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなる。とタゴールがアインシュタインに言ったように、観察者がそれを無数の原子の集まりと見るか、それとも月と見るか。
自然教育を学んでいた頃、子供達と山に登り、森の中に音がいくつあるか探して書き出してみるというWorkshopをしました。鳥の声や虫の声を書く子たちが多い中、「みみのおと」と書いている子がいて、耳に強い風が当たってびゅーびゅーと音が鳴ってるんだと教えてくれました。その音は自分には何故か無いことになっていた環境音で、それ以外を音として認識するフィルターを勝手にかけてしまっていた。いつの間にか存在すら認識できなくなっていました。確かに「みみのおと」が鳴っています。
子供達とかくれんぼをした時には、隠れもせず、広場の中央でただ目を覆っている2歳の子がいました。自分が鬼だと勘違いしたのかなと思って声をかけると、「見えなかったでしょ」と嬉しそうに笑っていました。
目を覆うと真っ暗だから、自分からは何も見えない。夜に灯りを消した時のようにみんなからも自分は見えない。という感覚なんだと思います。
風の音を聞く子や目を覆って隠れた子、あれから十数年経ちますが、あの子たちがどう育っているのかふと楽しみに思う時があります。
芹沢さんの出生時の話も初めて聞きました。その後は、どんな幼少期を過ごされていたんでしょうか?産まれてすぐに九死に一生を得て今に至っていたんですね。
人体Ⅲでアミノ酸構造物が縦横無尽に動き回る映像も見てみました。今こうやって生きていること、回復しようとする時の体内の深遠なメカニズムには頭が上がりません。
きっと宇宙も見方によってはこうなんだろうなと漠然と感じました。ミクロコスモスからマクロコスモスへ、それを覆うものも、それをまた覆う物もそう。幾重にも纏った鞘のように世界が連なっている。懸命に協働する彼らには個々の意思はなく(それはそれであるのかもしれません)人の意思が動かしていると思うと、じゃあ人間の意思や意識はどこから始まっているのだろうと改めて考えさせられます。
竹の花は真竹や淡竹が120年、孟宗竹が60年に一度、世界各地で一斉に咲き、その後一斉に枯れる。元を辿れば、同じ竹なので長期間に渡り同じ体内時計を刻んでいたという事なのでしょう。そのように共通して刻々と刻んでいるものが、竹にだけでなく他の生物にもきっとあるのだろうと思います。人もまた一組の人類からの枝分かれであるように。
蔡さんが中国や各地で、おそらく月からも見えるほどの大きさの爆発の火柱をあげた時、地球はどう感じたんだろうと考えました。大地の皮膚で起きた爆発の衝撃に、一瞬地球の意識が向く。そこに人々の意識も集中している。忘れかけた記憶を思い出そうとする行為が途切れたシナプスを再び繋ぐように、傷ついた細胞に意識を向け、必要性を強く感じるとそこが修復される。強い意思が細胞を賦活させるような、地球に働きかける何かがそこに起きたかもしれません。蔡さんがどういう思いかというのは知らずに勝手な感想ですが、作品を見てなんとなくそんなことが頭をよぎりました。
あの天体を「月」と呼ぶこと。まだその名で呼ばれる前には存在しなかった概念や言語化できない曖昧なものに、アートが非言語媒体を用いて名付けてくれてるような感覚があります。象の全体像こそは分からないままでも、まだ見えてないものが沢山あるということを知らせてくれる。芹沢さんが選択したアートの世界の話、まだまだ聞き足りないです。
今月は色々思うところがあり、いつもにまして話があっちこっちへ取り留めもなく書いてしまいました。
手紙のやり取り自体ほぼ初めての経験なので、書くという行為が蓋をして深く埋めていた色んなものを掘り起こしているのかもしれません。
世の中、わからないことだらけです。自分もとにかく対話を続けていくことが今できる一番のことのように思っています。
2025年7月31日 川口弘貴
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川口さま
やはりご家族の話を聞かせてもらうと、今の川口さんの輪郭がよりくっきりと見えてくるようで、なるほどなあと思ってしまいました。「自分」とか言っているけど、その育ってきたプロセスそのものも「自分」なんだろう。今この時点に出来上がっている「自分」というかたまりだけが「自分」なわけではない。
それにこのかたまりというやつも結構やっかいですよね。「人体Ⅲ」、観てくれたんだね。ひとつひとつの細胞の中で、あんな無数のアミノ酸構造物が黙々と、懸命に働いているのかと思うと本当に言葉を失います。川口さんも人間の意思や意識はどこから始まっているのだろうかと思われたようですが、ぼくもまさにそのことを考える。ぼくの意思とか意識とかが、どこか他のところ、たいていは「上」の方から命令を出して彼らを一元的に動かしていると考えたいところだが、そうとはとても思えない。脳内の生体電流を生み出しているのも彼らなんだから。だからぼくという意識のステージがあるのは確かだけど、彼らの活動がそれを下支えしている、あるいはその重要な一部であることは間違いないですよね。自分の一個の細胞でさえこんな働きをしているわけだが、例えば大腸に住んでいる様々な微生物、彼らはぼくとは別の生き物だが、彼らにもそれぞれの人生(笑)があり、それぞれいろいろと働いているわけで、そう考えるとぼくの意識がすべてをコントロールしているなんていうのは笑止千万に思えてくる。かといって我々がすべて腸内フローラの状況に支配されているという言い方も極端な意見で、すべてはそういう相互関係の上に発現してるんだというより他にない。まあ、何も言ってないに等しいかもしれないが(笑)。しかしそう、何も言ってないことがすべてを言い尽くしているような気もする。だんだん東洋の聖人たちの言葉みたいになってきちゃいますね。
こんな世界のあり方を見ていると、ぼくはどうしても動き方のほうに目が行ってしまう。普通出来上がった「かたち」ばかりに目が行きやすいけど、そのでき方とか動き方、ダイナミクスの方に目が行ってしまうんです。
どうしても目の前にある「かたち」、目に見える「かたち」、いやそれだけじゃなくて、「体制」とか「制度」といったような頭のなかにある「かたち」も含めて、ぼくたちは今現在に出現している「かたち」たちを最終形と考えて、そればかりに目を向けてしまう。ヤンツが言う「構造中心の世界観」ですね。しかしそんな「かたち」は次の瞬間変形し、移ろい続けていく。目を向けるべきはダイナミクスの方なんだと思う。
バッキー・フラーの本に「どうやら私は動詞のようだ(I Seem To Be a Verb)」というビジュアルブックがある。冒頭のフラーの詩。
私は地球で生きている。
けれども私が何者か、今も自分でわからない。
カテゴリーなんかでないことは、
それでもちゃんと知っている。
私は名詞なんかじゃない。
どうやら私は動詞のようだ。
進化していくプロセスだ。
宇宙の積分関数だ。
ぼくもまったくそう思う。
ぼくもきみも、きみのご両親もおじいさまもおばあさまも、あるいはぼくの妻も愛猫クロノも庭に転がってるこの石ころも、すべてが動詞だ。名詞なんかじゃない。
すべてを動詞と見始めると、やはり「歴史」ということが気になってきます。中学や高校の頃は歴史なんてとんと興味もなくサボってばかりだったけど、それこそ出来上がった構造の時系列的列挙だと思っていたからだ。しかしアーノルド・トインビーが『歴史の研究』で喝破したように、生きているものが他者と出会うために行う働きかけは、「原因と結果」の「原因」なんかじゃなく、「応答」なんだ。「因果関係」に執着する性癖は、我々の深刻な病だね。「偶有性」なんて分かろうともしない。生きるものの歴史とは、トインビーが言うように「原因と結果」のシークェンスなんかじゃなく、「挑戦と応答」のシークェンスなんだ。そう見ると、俄然「歴史」に興味を持つようになっていきました。
この手紙を書き出したのは、8月6日、広島原爆の日です。原爆や戦争の体験の継承が急務になっており、それはまさにそう、直接の体験者はどんどんいなくなっていくのだから。そんななか、若い人たちが語り部を引き継いでいこうとする姿を見て、そこに深い希望を感じました。他者の苦しみを自分ごとのように語り、伝えていくこと。それこそがダイナミクスそのものの継承なんだと思う。語る、聴くの連鎖を続けて行くことが大切で、逆にそんな対話が途絶えてくると、公然と核武装が経済的だなんていう人が国会議員に当選してしまう。
川口さんも蔡国強のことに触れていたけど、実はこういう文脈のなかでこそ、アートの力を再確認して行くべきだと思っている。ぼく自身がアートの世界に迷い込んで行ったのは、たまたまの成り行きではあったものの、そこでのさまざまな経験から、今はアートの力を深く確信している。
広島の話になったので、クシュシトフ・ウディチコの「プロジェクション・イン・ヒロシマ」のことを思い出す。彼が第4回のヒロシマ賞を受賞した時に行ったアートプロジェクトで、個人的には忘れることのできない、心が震えるような芸術体験だった。
1999年8月8日。原爆ドームが見える元安川の対岸に立つ。ドーム手前の川の土手にスクリーンが設置され、ここに映像が投影されるのだが、その映像とは両手の手振りだけだった。そして語りが入ってくる。
「みんな水を求めてここにやってきた…。」
原爆ドームの形を思い出して貰えば想像がつくと思うが、下層に両手が映っているから、原爆ドームの建物が頭と肩に見えてきて、突然、原爆ドームが語り始めたように思えた。
そして、しばらくすると語り手が変わっていく。とても不思議な時間で、原爆ドームに、次々といろいろな人が憑依して、広島の街の記憶を語りかけてくるような印象を持った。いや、印象を持ったなんて言うのは違うな。本当に原爆ドームがこの街の苦しみや悲しみの経験をぼくに語りかけてくるのだった。
アートの力とはこういうものだと思う。それは物語を生み出す。
しかしだからこそ、使い方を間違えると危険でもある。まあ、長くなってしまったから、そのことについてはまたの機会に話そうかな。
2025年8月9日 芹沢高志