vol.1はこちら

 

----------

芹沢さま


お手紙ありがとうございます。

浜に座ってじっくり読み直しながら、返事を書いています。
ここからは宝島と小宝島が見えます。あの島の先、この海の彼方には何があるのか、島影が見えるからには、その先を見に船を出したくなる。太古の人間も避難に迫られた移住だけでなく、ただ好奇心を動力に沖へ沖へと漕ぎ出していったのでしょうか。
南日本の島々には、テトラスクロールのような民譚が今も言い伝えられています。いつかまた芹沢さんにもこの海を見てほしいです。
 
「むかし、南の地から新たな陸地を求め船旅していた男が、海の中にぽつんと盛り上がったところを見つけた。人間が住めるかどうか分からなかったので、矢でヤドカリを放った。数年後、そこにヤドカリが繁殖している様子を見て、家族を引き連れて移り住んだ。」これは与那国島に残る民話なんですが、その砂の盛り上がりが「島」であり、島々に最初に移り住んだ人たちの物語です。
 
こちらに来て人間はヤドカリの子孫だという言い伝えを聞きました。石垣島にもこういった島建の伝説が残っています。「大昔、アマン神は土砂を槍矛でかき混ぜ島を作ったあと、アダン林のなかでヤドカリを作った。その後、神は人子種を下ろし、ヤドカリの穴から二人の男女が生まれた。」ヤドカリは、原オーストロネシア語ではウマンの名で、西ミクロネシアではエマン、沖縄ではアーマン、そして奄美ではアマミと呼ばれていました。この島が「あまみ」と名付けられるずっと昔の話です。
辰巳の方角、南東の海の彼方にあるというネリヤカナヤ。遥か向こうのオーストロネシアのラグーンで生まれた文明の名残が、確かにここに届いています。
国の境を超えたこの多島海のつながり。辺境から生まれる、「中央」に「集める」の真逆の文化に未来を感じています。
 
4月になってデイゴの花が咲き始め、今年も花を見たおばあ達は台風予想を始めました。言い伝えや民話、カサン節の節回し、撥捌き、チヂンの打ち方など、おじいおばあ達が色んなことを口伝してくれます。今年はヒンジャ(山羊)糞菓子というアバンギャルドな名前の伝統菓子の作り方を教えてもらうことになりました。
蜂刺されが多い年は台風が多いらしく、巣作りをする春には秋の暴風の兆しを感じ取り、風をしのぐため巣を低く作るので刺される人が自ずと増える。蜂も植物も、その兆しを読むおばあ達も、自然と調和する術をよく知っています。
 
強い風の渦は海の澱みを混ぜ、養分の偏りが生まれないよう縦横に攪拌する。大波が立ち、泡となり、空気中の酸素を深層まで到達させてくれる。
風が強い日に白波を見ていて、これが海にとっての呼吸なんだなと思いました。潮の満ち引きで水面が上下する様子は、横たわる巨大な生物の胸が膨らんで沈む動きにも見えてきます。かき混ぜられ珊瑚が根付き、珊瑚礁が島になる。強い渦から島の種のようなものが生まれることを考えると、神話の「槍矛でかき混ぜて島を作った」という描写も遠くないのかもしれません。
 
日本は自然災害が多いが故に土が肥えていて、アフリカ大陸と比べると10倍の速度で新たな土壌が作られるといいます。台風、洪水、火山噴火、地震などが多いことによって、土になる材料が運ばれ、新たな土が生まれる。
水は雨となり川となり、海になる。また、木になり山にも土にもなる。「雲は死なない」。
それらを構成する物質はもとの水にあらず、常にぐるぐると何かに転じ廻っていて、これは地球にとっての新陳代謝とも言える。
災害は恐ろしいものだが、意義があるから存在していると考えると、風が吹かなくなってしまったり、本来起こるべき場所で起きずに、起きなかったはずの場所で起こせるようになってしまう方がよほど恐ろしい。
無常や縁起を受け入れないこと。カオスを避けコントロールすることを追求し不変を追えば、永続の安定性が得られるのか。
 
3月11日、芹沢さんが翻訳された『自己組織化する宇宙』の言葉を反芻していました。
 
宇宙にとって自己実現とは何か?
生命にとって自省とは何か?
社会にとってゆらぎとは何か?
われわれにとって成就とは何か?
 
「斜面を転がるボールは谷底に落ち着くのが普通だが、何かの拍子に、たとえば突風のような外部からのゆらぎによって斜面を登り、中途の窪みに収まることもありうる。」
このカタストロフィー理論の一文にある「ゆらぎ」のようなもの。
自然災害の多い土地は一見生きにくく感じるが、不意なゆらぎが生じやすい場とも捉えられるかもしれない。
 
2009年、日本で皆既日食が見られるという年、小宝島で出会った90のおばあが「こんなにいっぱい実が成ったのは生まれて初めて」と畑を見て驚いていました。その年、屋久島でも種子島でも同じような話を至る所で聞きました。一度折れた骨が前より太くなるように、植物もストレスを感じると、幹が太くなったり、根を深く張ったりする。死への臨場感が生を太くしたのか。
皆既日食の瞬間は屋久島の森深くに居たのですが、木々の葉が落ちてくるほど、蝉も鳥も声が枯れんばかりに狂い鳴いていました。生きている間、必ず交互に繰り返されてきた昼と夜、明と暗。6分44秒の間、昼の中に夜が入ってくることは、動植物にとって未曾有の事態であり、此岸と彼岸を彷徨うような出来事だったのだろうと思います。
 
非平衡から生じる新奇性。東北や福島、熊本や能登から生まれる何か。
口承記録の目と目、声と声に見えた新奇性が確立性へと変わっていく様。
ゆらぎから生じる混沌、そこから生まれるものの強さを信じています。
 
思いつくままに、いろんなことを書き連ねてしまいました。
 
次のお返事も楽しみに待っています。
 
2025年4月30日 川口弘貴
 

----------

川口さま

浜辺で思考を巡らせるのはとても楽しいよね。さまざまな考えが波のように寄せては返しやってきて、時が経つのを忘れてしまう。
お返事、ありがとう。
 
島影といえば、昔、台湾で古い地図を見た時のことを思い出します。九州も描かれているのだが、博多と万世の二都市しか名前が載っていません。ちょうど加世田(今は大浦町や笠沙町、坊津町などと合併して南さつま市になってしまったけど)でプロジェクトをしていた頃だったので、不思議な気持ちになったものです。加世田は万之瀬川という大きな川が東シナ海に流れ出す河口にあって、万世というのもここの古い地名。野間岳という小高い山もあり海上から目立つし、黒潮に流されてきた場合、良い目印になっただろう。
海洋アジアの歴史は本当に古いのだと思う。
 
『自己組織化する宇宙』、読んでくれていたんだね。ありがとう。あまり公言してこなかったけど、ぼくにとって、あの本との出会いほどに重要なことはなかったかもしれません。今の自分の考え方のほとんどすべては、あの本との出会いのなかから生まれてきたものと言ってもいい。
 
奇妙な話なんだよ。少し長くなるけど、付き合ってください。これまで何冊かの本を翻訳してきたけれど、何も英語が得意だったから翻訳を始めたということではない。というか、今でも英語は苦手なんだ。
 
中学高校の同級生に星川淳という友人がいる。彼はその頃スワミ・プレム・プラブッダという名で活動していたのだが、そのプラブッダが、アメリカ西海岸で最先端物理学と東洋思想が出会って魅力的な融合が起こり始め、とにかくたくさんの本が出始めているから、それらを紹介するのをぼくとぼくの妻に手伝えと言ってきた。そう言われても、ぼくも妻も翻訳なんてやったこともない。すると英語は自分が面倒見るから心配するな。そしてジョージ・レオナードという人物が書いた『サイレント・パルス』という本を取り出して、お前は理科系だから物理学的なところは大丈夫だろう、妻の真理子はダンサーでもあったので、身体のことは大丈夫、だから3人でやればできるよと言う。確かにこの本は宇宙を永遠に広がる共鳴のヒエラルキーと捉える考えで、量子力学の話やら完全なリズム体験を習得するための数々の実技やらも散りばめられていて、語学力だけが問題じゃないということはすぐにわかった。

それでやってみるかということになったのだけど、ぼくも妻も重い英和辞典を抱えて通勤中にも英文と向かい合い、できた下訳はプラブッダが見てくれて、よく覚えてはいないけれど、半年はかかったかな。で、工作舎という出版社から出ることになって、出来上がった本を手にした時はさすがに嬉しかったけど、翻訳料をもらう段になって、もう一生翻訳なんてやらないと妻と誓いあったのを鮮明に覚えている。これが最初の翻訳書。

前置きが長くなってごめんね。しかし、人生というのは本当にわからないもんですね。

しばらくしてこの本が二刷になると工作舎から連絡があった。同時に電話口で信じられないことを伝えられた。出版された後、もう一度読み直して、一箇所だけ誤植があるのを見つけ、赤字を入れて工作舎に戻してあった。今でも忘れられないよ。一箇所「ムラサキウマゴヤシ」が「ムラサキウゴマヤシ」になっていたんだ。ところがこの赤入れした本が、印刷所の年末のボヤで焼けてしまったというのです。よりによってその本だけが燃えてしまったとのこと。で、悪いけど、もう一度赤入れして持ってきてくれないかというのだった。

実はこんなことを言うと怒られそうだが、松岡正剛らが主導していた工作舎はなんとなくおっかなくて、『サイレント・パルス』翻訳中は原稿をただ届けるだけ、終わればすぐに帰ってきていた。だから編集を担当してくれた内田美恵とも、ゆっくり話をすることもなかった。もう行くこともないと思っていたのだが、こんなことになり、再び赤字を入れた本を持って工作舎に出向いた。年が明けてすぐのこと、1981年の初めだったと思う。そして初めて、内田美恵とちゃんと会話を交わすことになる。

ところであなた、何やってるの?と彼女は言う。そういえばきちんと自己紹介もしていなかったと思い、リジオナル・プランニング・チームという会社で地域計画をしているという話をした。ここでやっていたエコロジカル・プランニングというのは、今も重要な仕事であると考えているが、ちょうどその頃、実は個人的には悩んでもいた。それはなんといえばいいだろう、「計画」というあり方そのものに、なんとなく疑問を感じていたと言ったらいいかもしれない。環境庁や国土庁といった優秀な政府の役人たちと仕事を進めるのは、確かにやりがいもあったのだけど、でも、何か割り切れない思いが増幅していた。それは未来との向き合い方というところだったのかもしれない。というか、自分がどこに割り切れなさを感じているのか、それさえもよくわからないでいた。

そんな話をしていたら、都市・地域計画分野にいるのなら、これ、読んで感想を教えてくれないかな?と言って、内田美恵が一冊の本を差し出す。それはちょうど彼女が訳出したばかりの発生生物学者C・H・ウォディントンの『エチカル・アニマル』という本だった。そしてその序文をエリッヒ・ヤンツという人に依頼したのだけど、どう思うか意見を聞きたいなあと彼女は言った。そしてもうすぐヤンツの新刊が届くから、それが来たら連絡するねとも付け加えた。
帰りの井の頭線の車内で早速その序文、「三八億年彼方からの進化的倫理」という一文に目を通したのだが、内容は難しくてよくわからないものの、とにかくこれだ!という直感で、深く、あまりにも深く感銘を受けた。
 
そしてヤンツの新著『The Self-Organizing Universe』が工作舎に届き、それを手にした時、実はヤンツが亡くなったと内田美恵から聞かされた。それはなんというのか、じゃあ、この本を訳出しなければいけないんじゃないかと、大袈裟にいえば運命みたいな気にもなって、思わず翻訳したいと言ってしまった。それは内田美恵も同じ思いだったようで、彼女も一緒にやってみない?と言う。彼女は完全にバイリンガルの素晴らしい才能だったし、一緒だったらこの大著に取り掛かることもできるかもしれないと思った。それからはまるで大学のゼミだな。ぼくが下訳して二人で読み合わせていく。で、5年かかった!5年だよ。彼の感性がぼくの身体に沁み込んでいくような気持ちで、淡々と作業を進めていった。
 
思い出話ばかりを聞かせてしまったな。
でも、本当に人生って不思議だと思う。心からそう思います。こんなふうにして、ぼくはエリッヒ・ヤンツの思考と出会ったんだ。
 
ではまたね。
 
2025年5月10日 芹沢高志