対流圏通信2 山下埠頭からの帰還

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気がつけば、すでにすべては新緑に覆われている。
眼を細め、緑に浸り、やっと帰ってきたんだとぽつりと思う。

川俣正から横浜トリエンナーレの補佐役を頼まれたのは2004年12月22日のことだった。それまで、というか今も、私は少数のアーティストとプロジェクトを組み立てて実行するのが好きだったから、100組近くのアーティストが呼ばれる横浜トリエンナーレのような国際展には興味がない、というか、関係がないと信じていた。それに、あらためて言うまでもないが、私は現代美術のメインストリームにいるわけではないし、たとえ自分が興味を持ったところで、そこに加わる術などないことも知っていた。だから、磯崎新が総合ディレクターを降りたという話を聞いたときも、そうか、たいへんそうだなあと他人事に思う程度だった。

もちろん、一瞬は迷った。川俣正の決断に比べれば大したこともないのだが、それでも、一瞬は迷う。つまり、どう言い訳すれば、自分を納得させられるのか? しかし今回は良いことを思いつき、そうか、川俣というひとりのアーティストを選んだと考えりゃいいじゃないかと、まあ、そういう風に考えて、OK、やらせてもらうと彼に答えた。
それからは、走り続ける毎日だった。圧倒的に時間が足りないわけだが、しかし、これは自分の性に合っている。とにかくやってしまうという勢いで、それこそのっけから「ワーク・イン・プログレス」を体現していった。東京から通うこともあきらめて、7月には中華街の外れに一部屋を借りた。そんな1年が過ぎていく。

ひとつのプロジェクトを立ち上げて、現場事務所で働くこと。何回繰り返しても新しい発見があり、私は好きだ。今回、あらためて思ったことは、計画過程で模型を多用したのだが、これがきわめて有効だった。図面ではなく、模型で考える。即物的な思考とでも言ってみようか? その乱暴さも含め、今回に似つかわしい賢明な選択だったと私は思う。展示会場となる山下埠頭3号、4号上屋の模型をつくり、展示する作品も模型でつくり、そこに当てはめて配置を考えていく。アーティストのプランはどんどん変わっていくから、建築チームには気の毒な話だが、川俣の後ろの本棚には、実現しなかった作品の模型の数々が、まるでいとおしいコレクションのように増え続けていった。

『横浜トリエンナーレ2005』は、「アートサーカス[日常からの跳躍]」というタイトルのもと、2005年9月28日から12月18日まで開催された。その評価は賛否両論に分かれ、当然のように現代美術メインストリームからは辛口な意見も聞こえてくるが、確信犯的に加わった自分としては、まったく悔いもない。

しかし、私個人にとっては、山下埠頭という特異な景観を使えたことがなによりもよろこびだった。ここは使いたいと思っても、簡単に使えるような場所ではない。その人生の巡り合わせに、子供のようによろこぶ。
たとえば2005年11月18日。朝、会場に向かうと、大桟橋に新造の巨大なコンテナ船が横付けされている。本当に大きな船で、大桟橋がまったく見えない。横っ腹にはHapag-Lloydの文字が浮かび、その存在そのものが現代アートの作品に思えてくる。
夕刻、ヨープのバー近くで、打楽器アンサンブルのユニット「オムトン」が演奏を始めるが、しばらくするとその船が突然動き始めた。目の前の海上で、ゆっくり、ゆっくり、回転を始め、舳先を外洋に向けようとしている。オムトンの波打つリズムと船の回転が見事にシンクロし、空は透明な冬の濃紺だ。月が冴え冴えと輝く。船は静かに出航していった。

こんな瞬間に同席できただけで、私は十分に報われている。

Talkin' P3, 芹沢高志「対流圏通信」